「うぉぉぉぉ……頭が、頭が割れるように痛いですよぉ……」
この、ちょっと説明的な独り言を呟きながら、薄暗い雑木林の中の小道をふらふら歩いている美少女は、神様ちゃんこと至神かれん。
あすかちゃんさんのお美事なキックに顎を刈られた神様ちゃんはすっぱりと意識を失い、気づいた時にはもう何時間も経過していました。
仮眠用のベッドに神様ちゃんを寝かせる情けを見せてくれた求道センパイには感謝しなきゃですね。
『敗者とはいえ、アトリエ前に人を野晒しにしておくのは私としても目覚めが悪いからね。とはいえ、次は無いと思っておいて』
『少なくとも今の時点では、私は君の支援をするつもりはないのだから』
…………。
「っはぁぁぁぁぁぁ……」
回想内の求道センパイの言葉が神様ちゃんの心を抉ります。
思わず長~いため息も出ちゃいます。
そう。神様ちゃんはまたしても――陽乃ちゃんさんに続いてあすかちゃんさんにも、きっちりと白黒つけられ、負けてしまったのでした。
「うう、ここからどうすればいいですかねぇ……大物狩りにも限界がありますし……頭が痛いです、文字通り」
言葉にしたらまた頭痛が強くなった気がします。あいたたたた。
――ほんの少し前までの神様ちゃんは、こういう痛みとはほとんど無縁でした。
神様ちゃんの魔人能力『神の左手』は、およそ身体的な不調であれば何に対しても作用可能です。
なので、例えばこういう頭痛に襲われても、左手でちょっと触ってひょいとすれば、すぐに無かった事にできました。
今は無理です。
『神の左手』は生物に作用する能力で。
今の神様ちゃんは、生物ではなく。
死体なので。
「死体なのに頭痛はあるって正直どういう事なんでしょうかねぇ……」
正式な検査とか受けた訳じゃないので、詳しい事は分からないんですけど。
歩く死体で吸血鬼な神様ちゃん、何故か感覚とかまで死んだわけじゃないみたいなんですよね。
蹴られたら痛いし、脳が揺れたら気絶する。ある程度は生きた人間と似た挙動をするみたいです。
それ死んでなくない?と思わなくはないんですけど、『神の左手』が無反応なのは確かなので……。
うう、ややこしい事考えたらまた頭が痛くなってきました。
「はぁ……こういう時はやっぱりアレですね。音楽の力に頼りましょう」
神様ちゃんは半分自分に言い聞かせるように呟くと、ハンドバッグから無線イヤホンを取り出し、両耳にセットしました。
次いで、スマホを操作して音楽プレイヤーを起動。『いつもの曲』と名付けたプレイリストの一曲目を選択。
程なくして、イヤホンからゆったりとしたピアノの旋律が流れ出しました。
「……うん。やっぱり落ち着きます」
心なしか頭痛も少し収まった気がします。単純だなあ。
気持ちを落ち着けた神様ちゃんは、さっきまでよりはしっかりした足取りで小道を進んでいきました。
この『いつもの曲』は、子供の頃からの神様ちゃんのお気に入りです。
なんでも、昔の有名な作曲家の人が道端で聞いたある女の子の演奏に感動して、その勢いで即興演奏した曲が元になっているんだとか。
昔の、それも海外の曲なのでちゃんとしたタイトルは神様ちゃんには読めないんですけど、分かりやすい通称がありまして。それが――。
「……あ」
気が付けば、神様ちゃんは雑木林の外にたどり着いていました。
太陽はとっくの昔に沈んでいたらしく、だけど辺りはちっとも暗くありません。
電灯が幾つか灯っていましたが、それより明るい静かな光が、辺り一面を照らしつづけていました。
――ああ。きっと、昔の作曲家さんがこの曲を作った時も、こんな美しい光に照らされていたんでしょう。
この曲の通称は、『月光の曲』と言うそうですから。
◆
Sed alia quidem cælestium gloria,alia autem terrestrium.
Alia claritas solis,alia claritas lunæ,et alia claritas stellarum.
Sic et resurrectio mortuorum.
◆
下駄箱を開けると、画鋲の中に上履きが入っていた。
言い間違いじゃない。山のように積まれた無数の画鋲の隙間から辛うじて上履きがちらりと見えている。上履きに書かれた月張の文字からして、俺が開ける場所を間違えたという線も早々に消えていた。
「……はぁぁぁぁ」
深い、深いため息。俺の人生の中でも1、2を争うレベルの深いため息をこんなしょうもないイベントで発したくは無かったが、我慢する局面でもなかったので仕方ない。
俺はため息を終えると、くるりと後ろを振り向き、言った。
「至神」
「ひゃいっ!?」
隣の下駄箱の影に隠れているつもりだっただろう人影がびくりと反応。茶色のポニーテールがぴょこりと跳ね上がるのが見えた。
俺はつかつかと彼女――至神かれんに歩み寄ると、不機嫌が全面に出ているだろう表情で睨みつける。
「ななななな何ですかなナミーくんさん。上履きは残念でしたけどその件に神様ちゃんは一切関係ありませんのだ」
「言いたい事は三つだ。一つ、俺の苗字は『四波平』で『よなみひら』とは読まないのでナミー言うな。二つ、俺の上履きを勝手に成仏させるな、掘り出してまだ働いてもらうわ。そして三つ……」
一気にまくし立てたのを一時中断、軽く息を整えて一番大事な三つ目を口にする。
「なんで俺に対してだけこんな雑なんだよ!! お前五十鈴とか天龍寺にはもう少しうまくやってただろうが!!」
「ゲェーッ!? なんで陽乃ちゃんさんやあすかちゃんさんにやったのまでバレてるんですか!?」
「……ああ、正解だったのか。裏は取れてなかったんだが」
「だましたなぁー!?」
「だましてはない。勝手に白状したお前が悪い」
なお、この件の情報源は『何でも屋』こと八重桜先輩だ。
『奇跡を目指すあなたの為の基本情報セット』三千円。安くはない買い物だったが、その価値はあったというべきか。
「それで、どういうつもりだ。回答によっては」
「よっては?」
「風紀にチクるぞ」
「すいませんマジ勘弁してください」
土下座しかねない勢いの栗色ポニーテール少女を見て、俺は再度ため息を吐いた。
至神かれん――黙っていればかわいい系の美少女である彼女を、俺は以前から知っている。
彼女が黙っていてかわいい美少女だった頃から。
それが、なんでこんな事になってしまったのか。俺の内心を知ってか知らずか、至神は口を開く。
「えぇと、ナミーくんさんはですね」
「うん、俺は?」
「押しには弱いタイプですし、こっちが危害を加えるのも辞さない態度を見せながら協力を要請すれば結構行けるかなって。割とチョロいですし」
「もしもし、ポリスメン?」
「ごめんなさい! ごめんなさい!!」
◆
至神かれん。彼女は、現在の天凌学園では数少ない『小学生時代の四波平月張』を知る人物だ。
12歳も終盤を迎えていたごく短い間ではあったが、俺は(いわゆる魔人学園ではない)一般的な小学校に通っていた。彼女は、その時のクラスメイトだったのだ。
当時の彼女は、今の『神様ちゃん』至神かれんとは似ても似つかない、どこに出しても恥ずかしくない美少女だったように記憶している。魔人であることから周囲に遠巻きにされてこそいたが、その距離を詰めて話した相手とはとても親しげだったのが印象深い。
俺はというと、距離を詰めて話したことはさほど無かったが、幾度かたわいもない会話をした事がある。
『月張君、月光の曲って知ってる?』
『昔の外国の作曲家さんが、ある女の子の演奏に感動して即興で作った曲が元になってるんだって』
『私、この曲が大好きなの。静かで、綺麗で』
『ねえ、月張君は――』
――昔の話だ。
あの頃とはもう、何もかもが違っている。
至神も、そして、俺も。
◆
「ふっふっふ、来ましたねナミーくんさん」
「来ましたねじゃねえよ。あの画鋲の山片付けるの滅茶苦茶大変だったんだからな……」
「でも、その山の中に埋めておいた手紙には気づいてくれたんですよね?」
「大体オチは見えてたからな。にしても、大分迂遠だろ。あそこで話したらダメだったのか?」
「他の人のいない所で話したかったんですよー。その点、日の落ちた後の正門なんて、うってつけです。いちいち通る人もいないですし、何より――」
「?」
「――月が、すごくよく見えるんですよ」
「嫌味か?」
「本音です」
「……要件は」
「簡潔です。『神様ちゃんが主演を取るのに協力してください』」
「断る」
「意外ですね。ナミーくんさん、そこまで執着はないと思ってたんですけど」
「少なくとも、お前がそのふざけた『演技』を続けるなら、協力するつもりはない」
「……。変わらないね、月張君」
「変わったよ。お前はどうなんだ、変わったのか」
「変わった事にした。そうじゃなきゃ、耐えられなかったから」
「そうか。――あの時、言えなかった事が二つある」
「何?」
「一つ。俺はあの『月光の曲』が嫌いだ」
「――そう」
「二つ」
「『月光の曲』が、少女のピアノを聞いて即興で、って言う話は、作り話だ」
◆
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン作、ピアノソナタ第14番嬰ハ短調 作品27-2、『幻想曲風ソナタ』。
この曲にまつわる伝説は幾つかあるが、そのうちの一つが『月光の曲』だ。
ベートーヴェンが夜の街を歩いていた時、ある盲目の少女のピアノ演奏を耳にし、それに感動した即興演奏がこの曲のもとになっている、という話である。日本では戦前の尋常小学校の国語教科書にも載ったことがあるそうだ。
だが、この物語は19世紀ヨーロッパで生まれた作り話である。この曲の通称として『月光ソナタ』の名があるのは事実だが、その名が広まったのはベートーヴェンの死後。この曲はある少女に捧げられた物だが、その少女は盲目ではない。
少しでもこの曲に興味を持って、調べた事があるなら、すぐに行き当たる話だ。
至神かれんが何故この事実を知らなかったのか、当時の俺も、今の俺も知らない。
ただ、このことを伝えないのは、不義理だと、思った。
◆
「……」
「あれ?」
「神様ちゃんは、この曲を好きだったのです」
「それは、本当の事だったのです」
「けれど」
「この曲を好きになったきっかけは」
「……」
「ああ」
「なんで、忘れていたんでしょう」
「私の、大好きな」
「……お爺様」
「お爺様のこと、なんで、忘れていたんでしょうか」
◆
やれやれ。山登りは老骨には少々骨が折れる。
だが、これもまた役者の業、という奴じゃろう。
――なに、何か疑問があるのかね?
高校時代に夭折した男に孫がいるはずなかろう?
ああ、見えてきた。
五十年ぶりじゃ、懐かしきわが母校の正門。何も変わっとらん。
さあ、御覧じろ。
至神十字、久々の晴れ舞台じゃ。
◆
Nolite putare quoniam veni solvere legem aut prophetas.
non veni solvere, sed adimplere.