『神はこの地を捨てたのだ。
人の奏でる音楽は、神たる者らの忘れ形見、残響残滓に他ならない』
『たとえ僕の奏でる曲が、神の模倣であろうとも。
それが心を揺らすのならば、その共鳴に真偽はない』
『それでも――もう、私の心は音を聴かず、魂は震えず、
――君の奏でる歌も、私の闇を払えない」
『ならば』
『だけど』
『――あの鐘を――』
【暗】 【転】
時刻は朝5時。
天凌学園演劇専修科男子学生第2寮、通称「ポルクス寮」。
高等部一年、通称「予科生」の朝は早い。
「おはよ、ツッキー」
「ああ」
俺の寝ぼけた声に、ルームメイトのツッキーは淡々と返して部屋を出た。
予科生の登校時間は7時。
それまでに敷地内を走って汗を流すのが、このクソ真面目なルームメイトの習慣だ。
あくび交じりに電気ケトルで湯を沸かし、その間に歯ブラシを口にくわえる。
ポルクス寮は2人部屋だ。
我の強い魔人として覚醒した子どもたちに社会性を身につけさせるため、という名目で、数年前までは3人部屋、おまけにキッチンすらなかったとか。刑務所かって話だ。
今の寮を設計してくれた先人に感謝するばかりである。
買い置き弁当を冷蔵庫から二つ取り出し、レンジに放り込む。
今日のカリキュラムは、演技基礎とダンス応用、そしてアクション。
座学がほとんどない、ヘビーな一日だ。
インスタントコーヒーに、ひとつ多めに角砂糖を入れる。
俺は2個。ツッキーは1個。
5時44――45分。
スマホの表示が切り替わると同時に、部屋のドアが開く。
「おつー」
「助かる」
無地のマグカップから一息に熱いコーヒーを飲み干し、ツッキーはシャワーへと消えた。
努力系寡黙主人公と、お調子者のルームメイト。
これが俺たちの日常だ。
やはり、俺は、誰かのサポートが性に合っている。
【明】 【転】
きゅっきゅっ、と音が鳴るほど磨き上げられた床と鏡。
掃除に至るまで、ツッキーの完璧主義は徹底している。
天凌学園体育館併設のダンス練習室。
予科生は8時半のホームルームに先んじて登校して関係施設の清掃をするのが慣例だ。
時刻は6時47分。
面倒だが、早めにすませてしまえば、気がねなく自主練ができるのはありがたい。
ツッキーはジャージ姿のまま、わずかに腰を落とした。
「あと13分。やれるか?」
「OK」
他の予科生たちが登校してくるまでの、2人だけの自主練。
アクション課程の応用演舞だ。
彼我を結ぶ軸から斜めに歩を進め、拳を繰り出す。
横面――観客やカメラからは直撃するように見せつつ、拳の軌道をずらし、顔の横の空間を打ち抜く。
重要なのは、ずらしの大きさと、打撃の速度。
パンチが顔から遠すぎると、リアリティがない。
だが、近すぎれば実打事故のリスクを伴う。
打撃が速いと軌道のコントロールが難しい。
おまけに『受け役』のタイミングがシビアになる。
俺の拳が頬の脇を横切る。
ツッキーが、弾かれたように首を振った。拳のダメージを表現する演技だ。
寸止め、ずらし打ちといった「本来存在していない打撃」という『虚』を、『実』であるかのように見せるには、この、『受け役』の演技との一致が不可欠。
吹き飛ばされるツッキー。
追い打ちをかけるように踏み込む。
ツッキーの前蹴りカウンター。
当然その軌道は、脇を掠めるように流れ、命中はしない。
しかし、その『虚』を『実』にすることこそ、役者の本懐。
俺はびくり、と腰を曲げて蹴りの衝撃を体現する。
表情を歪ませ、重心を後ろへと移し、一度、二度とよろける。
半歩下がったところで、ツッキーが腕をわずかに上げた。
次が、フィニッシュ。見せ場にして、一番危険で、派手な応酬。
「ッ!!」
大きな構えで、ツッキーの右脚がしなる。
全身のバネと回転を活かした、首を狙う上段回し蹴り。
足刀は命中することはない。
コントロールが難しい上段蹴り。
だが、このルームメイトの体幹を、鍛えた足腰を、俺は信じている。
だからこそ、直視し続けられる。
その美しい『虚』を『実』にする、絶好の機を逃さぬため。
目を閉じろ。
早く身をかわせ。
本能が叫ぶ。鼓動を加速する。
ダメだ。
俺は、恐怖で動くのではない。
ツッキーの蹴りが「命中した」から、動く。それを演じるのだ。
足刀の風圧が、頬を撫でる。
そう錯覚するほど近づいた瞬間、首を起点として、体幹の軸を崩した。
同時に床を蹴り、大きく空中で身を捻る。
あまりに強い蹴りの勢いにより、体の末端だけが大きく動いたことを示す演技。
世界が回転する。
ぐるりと回る視界の中で、ツッキーは残心をし、こちらを見下ろしている。
いける、全身が落下する寸前に、腕で床を押さえて衝撃を吸収して――
「おはようございます!」
「おはよう」
「げ、今日も『月組』が一番乗りかよ」
ヤバ……ッ!?
――おまえは、月だ。
視線に過去の言葉が重なり、見えない鎖となって絡みつく。
全身が硬直する。
引き延ばされた時間感覚が、落下とともに元に戻る。
びたーん!!!
「痛ってえええええええ!」
俺は盛大に受け身に失敗、尻からスタジオの床に着地した。
「大丈夫!?」
「おいおい、ヤバい音したぞ」
生徒達が騒然とする。
どうやら、他の予科生が集まる時刻――7時になっていたらしい。
「ここは済んだ。オレたちは保健室へ行くから、他の場所の掃除を頼みたい」
ツッキーは登校してきた生徒たちに頭を下げ、俺を抱え起こした。
「『蝋で固めた鳥の羽根』ってね。『リトルブラザー』も『フォロワー』も、無理しすぎ」
「しっ。やめなよ」
イカロスの翼、身の程知らずが怪我をする、か。
俺たちは、良くも悪くも、アクション課程では目立つ存在だ。
やらかせば、これみよがしに皮肉を言う者もいる。
「意見ならば直接言ってもらえるか」
ツッキーが一瞥すると、こちらを揶揄していた生徒は肩をすくめた。
「ツッキー、よせ」
「……すまん、四波平」
【明】 【転】
天凌学園の保健室には「蘇生機能」が備わっている。
それは、保険教諭の異能ではなく、設備に備わった性能であるそうだ。
たとえ魔人能力の暴発で学校敷地内において人死にが出ても、死者は記憶と経験はそのまま、この場所で蘇生する。
だが、逆に小さな怪我や病気……打ち身、風邪、捻挫といったものに対して、この奇跡の力は生徒に恩恵を与えてくれない。
保険教諭の那須先生は、「血も出てないし、いたって退屈……ううん、湿布でいいでしょ。観月君だっけ? 四波平君に貼ってあげなさいな」と、あっさりベッドを貸してくれた。
「四波平、すまん」
ベッドでうつ伏せになってトランクスを半分下げるという極めてダサい恰好での羞恥プレイに耐えていると、ツッキーは、ぽつりと呟いた。
いや、別にいいのだが。
それよりもさっさと湿布を貼って、この恥ずかしい状況を終わらせていただきたい。
「皆が来たことに、気付かなかった」
「ツッキーのせいじゃない。見られると動きが鈍るとか、役者失格だろ。それより……」
早くズボンを履かせてくれ、そんな俺の言葉を、ツッキーの真剣な声が遮った。
「それでも! おまえは、オレに事情を教えてくれた。なら、当然気遣うべきだ……」
その気持ちはとても嬉しいが、ツッキー、今おまえが一番気遣うべきは、ルームメイトの尊厳を守るために、端から見たら今俺たちが一体どういう状況なのか冷静に把握することだと思うのだがどうか。
ほら、那須先生がこちらを見ながら、爆笑しないように必死で頬の内側の肉を奥歯で噛んでるのに気付かないのかこのクソ真面目君ツッキーこと観月 藤十郎16歳は。
「四波平。偉大な身内がいる中で、お前はよくやってる。実力さえ出せれば、アクションなら一流だとオレが保障する。だから……口さがないやつらの言葉なんて気にするな」
やはり、こいつは、いいヤツだ。
そして、俺は、こいつに、嘘をついている。
「さんきゅな、ツッキー」
「当然だ。おまえは、ルームメイトで……オレの尊敬する人の、四波平 明の、弟なんだ」
その言葉は、尻を半分剥き出しにされた羞恥よりも、床に打ち付けた痛みよりも、鈍く、俺の――四波平 月張の心を苛んだ。
【暗】 【転】
四波平 月張は、天才アクション子役、四波平 明の弟である。
月張は、偉大な兄と祖父へのコンプレックスで、多くの人の目に晒されると演技が鈍る。
月張は、身内の七光りで、天凌学園に入学した。
これが、一般的な認識……そして、ルームメイトのツッキーこと、観月 藤十郎に対する俺がついた、嘘の内容だ。
事実は、ほんの少しだけ、違う。
「『世界のトクロウ』も引退か」
「息子とはいえ、星蔵さんは、役者じゃなくて殺陣師だからなあ」
「『華』ばかりは、生来のものだ。訓練でどうにもならん」
「なんかね、何を撮っても、あの人の焼き直しになっちまうんだよなあ」
世界的スターである祖父が引退し、日本のアクション業界は停滞期に入った。
父、星蔵は勤勉だったが、役者としての『華』がない人だった。
やがて、父は女優の母と結婚し、双子が生まれた。
兄、四波平 日向。
弟、四波平 月張。
後進の育成にいそしんでいた祖父は、双子の兄に、役者としての『華』を見出した。
双子の弟は、父に似て地味だった。だが、父と同様、体を動かすことを苦にしなかった。
祖父は半ば奪うようにして両親から双子を引き取り、徹底した英才教育を施した。
兄には、役者の『華』を輝かせるための訓練。
細やかな演技と、平時の挙作、言葉の選び方とマーケティング。
自己演出と、祖父の人脈の継承。
弟には、身体運用と、祖父が体系立てたアクション演技『技斗』の全てを。
役者として叩き込まれたのは、兄の模倣だけ。
人生は短い。
アクションを極めることと、役者としての『華』を開花させること。
その両立は、祖父のような一部の才あるものだけに許される。
ならば、分担すればよい。
幸いにして双子。顔も体格もほぼ変わりない。
そして、兄、日向を、メインアクター、
弟、月張を、スタントダブル――アクション代理とした、子役ユニットが生まれた。
祖父はユニットに『四波平 明』と命名し、一人の子役であるかのように売り出した。
それが発覚しなかった――今もマスコミに暴露されていないのは、祖父に対する関係者の義理立てがあったからだろう。
あるいは祖父の知り合いの何らかの精神操作系異能によるものなのかもしれない。
とにかく、そうして、『四波平 明』は、一世を風靡した。
だが、世間が見ていたのは、兄貴、日向だ。
マスコミのインタビューも、見せ場のアップの演技も。
人々は、兄貴の『華』にこそ、魅了された。
俺がしていたのは、物真似だ。
祖父の真似のアクションを、兄貴の代理として行う。それだけの代役。
誰も、俺を見ていない。
そんないびつな役者人生が続いた、12歳。
祖父が死んだ。
兄は母に。俺は父に引き取られた。
こうして、『四波平 明』は、活動休止。
俺は、兄貴が今どうしているかも、知らない。
「僕には、演技なんてできない。日向みたいに、楽しめない。
お爺様の……日向の真似をするだけ。日向の、ただの、アクション代理だ」
「……ねえ、月張。世界に、――なんてない。
お爺さまの演技だって――」
「だけど」
「なら」
「僕らだけの、演技を――」
いつかの、兄貴との約束。
もう『奇跡』でも起きない限り、叶わない願い。
四波平 月張は、天才アクション子役、四波平 明の弟である。
……嘘。俺の兄は、日向。『明』は、俺と日向とのユニット名だ。
月張は、偉大な兄と祖父へのコンプレックスで、多くの人の目に晒されると演技が鈍る。
……嘘。観客に見られるのが怖いのは、ずっと「代役」としてのみ演じてきたから。
月張は、身内の七光りで、天凌学園に入学した。
……これだけが本当。俺以外は皆、目指す役者の夢を追って演劇専修科に来ているのに。
けれど、仕方ない。
俺は、月。
日の光を反射し、夜にだけ輝く、代役の名前。
だから、日がなければ、月が明るく輝くことはない。
月は自らを燃やさない。自ら光を放たない。
ああ。
「……月が、言い訳をしてやがる」
俺の手元には、一冊の台本がある。
天凌祭開催式・定例演目「満天の空と約束の鐘」。
『神はこの地を捨てたのだ。
人の奏でる音楽は、神たる者らの忘れ形見、残響残滓に他ならない』
『たとえ僕の奏でる曲が、神の模倣であろうとも。
それが心を揺らすのならば、その共鳴に真偽はない』
『それでも――もう、私の心は音を聴かず、魂は震えず、
――君の奏でる歌も、私の闇を払えない」
『ならば』
『だけど』
『――あの鐘を――』