保健室。
ぼんやりと、ベッドで横になって天井を眺めている少年がいた。
少年の名前は紙屋朔という。
黒い髪をした女性的な美少年。
私立天凌学園演劇専修科高等部二年、社会的に保証された彼の身分。
あるいはある俳優の隠し子。
あるいは島流しのように学園に入学させられた少年。
かげろうの通り名を持つもの、魔人能力を持つもの、文学部に籍を置くもの。
どれも彼を表す言葉だが、どうにも彼はそれらが自分を表す適切な言葉ではないような気がした。
確かに、自分の持つ要素を表しているのだ。
しかしまるで大きさの合わない靴を履いているようだ。
入りはするものの、進む度に脱げたり窮屈になったりする。
「……」
「調子どーお?」
「いつもどおりやよ。ほがらかセンセ」
那須ほがらか。
この学校の保険医で新米の先生。
いつも保健室にいる……これも彼からすれば据わりが悪い。
肩書というものよりも、那須の人柄を知っているから。
先生というには少し緩い気もするし、意外とえぐい趣味をしているとか、そういうところを知ると属性以上に彼女の個性に目が行くのだ。
(……あぁ)
自分の個性が、己というものが、まだ分からないのだなと結論付ける。
「センセは怒らへんの」
「なにが?」
「保健室で昼寝しとること」
「別にいいじゃんね」
いいわけがあるか、と内心で紙屋は突っ込んだ。
救護者が現れればもちろん紙屋はベッドを譲るし、那須もそうするように促すだろう。
しかし今はいない、だから許す。
それを良しとしているのは保険医としては少し適切ではないと思われる。
怒って欲しかったわけではないが、怒られないというのもなんだか申し訳なくなってしまう。
「寝たかったら寝ればいいし、相談事あったら相談したらいいし。教室で毎日真面目に勉強してるんだし、保健室でくらい好きにしたら?」
「……学生の本分は勉強やねんから授業がしんどいとは言えへんと思いますけども」
「先生みたいなこというじゃん。生意気」
鼻をつままれる。
ふぐ、と息が抜けるような間抜けな声が出た。
「若いうちから大人みたいなこと言うと大人になった時に楽しくなくなるよ」
「……ほがらかセンセ、まだ若いやん」
「ありがっとー」
「そういう意味で言うたんちゃうよ」
くすくすと笑う那須の姿を見て、紙屋も少し眉を緩める。
那須は良くも悪くもフラットだ。
新米で、マイペースで、それら以外の要素が重なり合って那須ほがらかになっている。
そう思うとやはり、他人を一属性だけ抜き取って形容するのは適切ではないのだろう。
「ん」
なら、自分はいったい何なのだろうか。
「センセ、この間な。進路希望調査票みたいなん書いてん」
「え、はやくない? 二年でしょ」
「最近は受験から逆算して今のうちからある程度見据えんとあかんねんて」
「はへー……大変だ」
那須の視線がベッドの上の紙屋へと落ちる。
「なんて書いたの」
「……」
「聞いてほしかったんじゃないの」
正解だった。
聞いてほしかった、あるいはそれを聞いてなにか言葉が欲しかった。
「なにも」
なにも、書かなかった。
正しくは書けなかった。
なりたいものなどなかったし、なれるものが多かったから。
”転生人後”その能力によっていろいろな世界の自分を見つけた。
それは演技に大いに役に立ち、紙屋朔を立派な演者へと成長させた。
しかし並行世界を見れば見るほど少年の心には雲がかかったかのような憂鬱が溢れ始めた。
それは重たく粘つく黒いもの。
身を取られれば動けなくなり、沈んでいくしかないもの。
「……」
「周りの真似したり適当に書かなかったの?」
「……うん」
「それは、なりたいものがあるってことなんじゃない?」
そうなのだろうか。
だが、不思議と腑に落ちた。
本来なら母親の言いつけ通りに役者になればいいのにそうしなかった。
それはきっとどこかに思い当たるところがあるからで、自分のなりたいものは黒いものの底に落ちているはずの願望。
目を背け、見ないようにしていたこと。
「センセ」
「なに?」
「後輩に、いい役者がおるんです。川越翔馬。憑依するみたいな演技で」
「うんうん」
「僕が魔人能力を使ってやるようなことをシラフでやるんです」
自分だって役の幅は広いのに。
きっとみんな、自分と彼なら彼に役を渡すだろう。
「僕やって、演れるはずやのに」
ベッドの掛布団に包まって、紙屋はそう言った。
演じるために自分はこの学校に入れられたのに、自分よりも上の演者……それも同じように役の幅が広い人間が現れる。
想像していなかったわけではないが、ものが違いすぎる。
芸術とは比べて優劣をつけるものではない、と人は言う。
しかしその建前も明確な数字や評価の形で上下を付けられる。
自分は下なのだ。
そう紙屋は認識している。
「みんなが、僕やない誰かを見てる……」
「……」
那須は、否定の言葉を吐けなかった。
紙屋が那須のことをよく知るように、那須もまた紙屋のことをよく知っていたから。
教師としてそれを即座に打ち消さなかったのはマズいという気持ちはあった。
しかしそれを言ったからといって今の紙屋はそれを素直に受け入れられる状態でないのは分かっている。
ただ、吐き出させるために言葉を受け止めたのだ。
「……僕はなんのために」
布団から這い出た手がシーツを掴み、華奢で細長い指で皴を作っていく。
苦しみ。
喉の奥からかすれた息が漏れるような苦悩。
それは紙屋の抱える歪みであり背負ってきた荷物。
これまで心の中に残っていたしこり。
それが自分の将来を見据えることで堰を切ったようにあふれ出した。
「……センセ」
「ん」
「僕は僕がなりたいもんになろうとしてもええ?」
それは、これまでの人生で口にすることのなかった言葉。
誰もが無意識のうちに承認しているものを承認できなかった少年の飾らない言葉。
母の望むように演じ、演出家が望むように演じ、そうやってきた紙屋が吐き出した言葉。
それは心根から現れた本音。
「ダメなんていう理由ないよ」
「ちゃう。ええって言うて」
「……いいよ、君は君のなりたいものになっていい」
「……」
長い沈黙のあと、がばっと紙屋が起き上がった。
掛布団を押しのけながら、少年は誓った。
「ほんなら、奇跡でも起こしてみよか」
「え゛なにになりたいの? 神様?」
「ないしょ」
そう言ってベッドを下りて荷物を拾い上げる。
那須に挨拶をしてさっさと寮へと帰る道を歩いていく。
(進路希望には書けへんもんやけど……なりたいもんは前から分かっとった)
人に承認され、愛される存在になる。
そんな抽象的な夢が胸の中にあった。
(こんなん、奇跡でも起きへんとなれへんでなぁ?)
紙屋朔は、どうしようもなく歪んでいた。