■プロローグ
俺がその人を初めて見たのは入学式のことだった。
それを見て真っ先に獲得した感情は驚愕であり、次いで知ったのは絶望にもほど近い憐憫であった。
彼女――一学年俺より年上の遠牧 叶依は膝から下を強固に拘束された状態で、車椅子を懸命に繰っていた。
その左頬は、包帯で隠して尚はみ出したやけどで爛れている。
◇ ◇
目を瞑った少女がひとり、同じ制服――青い中等部のリボンを首元に揺らした少女に手を引かれそろりそろりと歩いている。
ふたりが踏み入れたのは濃い暗がり。先も見通せぬほどの漆黒の中、手を引く少女はにわかに緊張をみなぎらせながら先を行く。
そっと、ふたりが足を止めた。
そしてふと闇の中で目を開いていた方の少女が誰かを探すように視線を泳がせた。
暗視機能付きの眼鏡の先で見えたそれがアイコンタクトだということを、俺は知っている。
だから左右の指を開き球を成す漆黒の中を記憶の限り正確に指差していった。
黒に描くのは蛍光色で光る星座だ。
南十字星、ケンタウルス座、くじゃく座、みずへび座、とびうお座、はちぶんぎ座……。
どれもこの日本では観測することのできない星座ばかりだが、俺は記憶している。何度も繰り返しているから記憶している。
南半球の星座群。
瞬く間に出来上がったここではない場所の天体を広げ、その景色を彼女たちへ献上する。
「目、開いていいよ」
「……わぁ!」
手を握っていた少女の促しに応え、彼女を信じ、固く目を瞑っていた少女が目を開く。
自分の眼前に広がる風景を信じられないとでも言うように、導いてきてくれた少女に抱きついてはしゃいでいる。抱きつかれた少女は紅潮し、おずおずと抱き返して一緒に偽物の星空を見上げた。
――やがて少女たちは小声で囁き合い、顔色を驚愕、動揺、戸惑い、そして喜色へと変えていく。
それが意味するものは簡単に察することができるものであったが、介入せず、その睦み合いを静かに眺めていた。
自分はそういう人間であると俺――蛍石 八面を定義する。
◇ ◇
「『キューピッド先輩』、ありがとうございました!」
先導して想いを遂げたらしい少女は後日、俺の元を訪れほがらかに笑った。花のほころぶような満面の笑みに、俺もほんの少しつられて口角が動く。
「いや……なんてことはない。空き教室で放課後を過ごすのは生徒の自由なのだから」
俺の言葉に三つ年下の少女は目をぱちくりさせる。どうやら謙遜が過ぎて戸惑わせてしまったらしい。だから俺も言葉を探し、いや、と首を振った。
「喜んでもらえたなら冥利に尽きる。しかしその……キューピッド先輩というのは中等部にも定着しているのか?」
「当り前じゃないですか! 『どんなふたりでも結ばせることができる』縁起物の先輩なんて、この学校にキューピッド先輩の他にいませんよ!」
……どうやら噂が独り歩きして、少々尾ひれがついてしまったらしい。だがそれをわざわざ否定することも躊躇われて、悩んだ挙句にそのままにしてしまった。
にっこりと笑って一礼をした少女はぱたぱたと駆けていく。
その後ろ姿を呆然と見送っている俺を見かねてか、悪友のひとりが肩を叩いた。
「八面、不機嫌か?」
「そんなわけでは……いや、お前が言うのであればそうなのだろう」
そうしてそいつの手を払い、俺は手で会釈をしてリノリウムの廊下を行く。
保健室を目指して歩く俺の足音はよく響いていた。
――なるほど、今の俺は確かに「不機嫌」なのだ。
放課後の保健室に入った俺が見たものは、ベッドに横たわり、両足がどこにも接地しないように骨折用の器具で吊るされた遠牧先輩の姿だった。
突然入ってきた俺を見るや、保健の先生と話していた先輩女生徒たちが弾かれたようにこちらを振り返り、そさくさと保健室を辞し、去っていく。
保健室に入る前、聞こえた雑音は彼女たちから遠牧先輩への批難だった。
俺は先生に会釈をし、遠牧先輩の元へ歩み寄る。
「……蛍石くん。あのね、違うの、わたし、わざとじゃない」
「わかってます、遠牧先輩」
ベッドの傍らに立った俺に、必要もないのに怯えたように先輩は弁明を始める。
ちがう、ちがう、偶然バランスを崩しただけで、あの子たちを殺すつもりなんて全く無かったの。
ちょうどそんなことを繰り返していた。
「だからね、蛍石くん。わたしは悪くないからもう真っ暗にして足を見えなくして」
――そしていつもの言葉。
故に俺は自分の能力を使う。
『灰灯りのとばり』は容赦なくあたりに闇を生み、全く先の見えない空間を作り上げる。
俺だけは全てを見渡せる、そんな都合のいい黒を。
指は固く握りしめ、動かさない。
ただただ先輩が両頬を濡らして泣いているのを俺はじっと見ている。
顔に巻かれた包帯の下の目が実は見えることを俺は知っている。
固定された遠牧先輩の膝下が本当は健全に動くことを俺は知っている。
――遠牧先輩の魔人能力の詳細を俺は知っている。
遠牧先輩の魔人能力は、つま先が設置した部分を爆心地とし、無傷の自分を残して周囲を爆炎で包むというものだ。
そのせいで能力が発現した幼少期、遠牧先輩は自分の家もろとも両親を爆死させた。顔の火傷は無我夢中で娘を守ろうとした燃え盛る母親が抱き着いたときにできたものだという。
そのあと保護された遠牧先輩はその能力が行使されることの無いよう、厳重に今の状態へと施された。
天凌に入れられたのだってここなら人を殺しても治せる力が備わっているからだ。遠牧先輩の混乱をよそに年々強くなっているというその魔人能力は幾度もの不運で何人もの生徒を殺し、保健室の力が何度もそれらを蘇らせた。
しかし、学生という猶予期間も間もなく終わる。
――本当かどうか定かではないが、一年を切っている卒業を機に両足を切り落としてもらえると遠牧先輩は語っていた。
そうすれば、と嬉しさをにじませた声で先輩は泣いていたが、そうすればどうなるというのだろう?
俺はわからない。常に混迷している遠牧先輩が俺のことをどう認識しているかもわからない。
しかし。
◇ ◇
――今よりずっと子供の頃、おごりたかぶった俺は「自分の能力は他人を幸せにできる魔法」だと信じて疑わなかった。
それはきっと、俺を善良な人間に育てたかった両親たちの祈りだったのだろう。
それに感謝している。感謝はしている、が。
それは中学入学を機に根元からぽっきりと折れる脆い自信であった。
俺は天凌で出会った遠牧先輩を幸せにする方法を全く見つけられないままここまで来てしまった。
何の巡り合わせか入学当初の俺の視線を釘付けにした遠牧先輩はやがて俺と知り合い、現実を見なくて済む手段として俺の能力を望んだ。
俺は唯々諾々とその言葉を呑み、遠牧先輩を暗がりの中に閉じ込めることしかできない。
そんなことがあってたまるか、と思う。
こんなのは魔法ではないと心の何処かで子供の俺が喚いている。
そうだとも。今の俺は冷笑する。魔人能力は魔法ではない。
その正体は、きっと呪いだ。
俺の生み出した闇の中で遠牧先輩は光を求めない。だから俺は微動だにせず、いつか寝るまでの先輩を見続けている。
耐えられなくなり眼鏡を外すと、すぐに俺すらも先の見えない黒に包まれた。
先輩の卒業まで、あとどれだけの期間が残されているだろう。
脳内で指折り数える。そしてそれはふと止まった。
今年には、特別な文化祭が、ある。
五十年に一度の奇跡が訪れるという。そんな不可思議な話がまことしやかに囁かれていたことを思い出す。文化祭の演劇。主演。鐘が響く。
そんな噂に縋り付くのはどうかとも思うが、もし奇跡があるのならば。
もし奇跡があるのならば、その奇跡を遠牧先輩に捧げることはできないだろうか?
冷静な俺が首を振る。ありえない。
子供の俺が縋り付く。それはきっと魔法だと。
――ああ、俺は、中学生になったときに大人になったつもりでいただけの、所詮まだまだ子供だったのだ。
奇跡を手に入れる。演劇の主演に選ばれるためにはどれだけの努力が必要なのだろう。その努力を支払い続けてきた演劇専修科の人間に俺が届き凌駕することなどあり得るのだろうか?
だが俺は願ってしまう。愚かにも願ってしまう。
――遠牧先輩を、穏やかな光の中で歩かせてください、と。
だって俺の幸せは、傲慢にも誰かを幸せにすることなのだから。
こぶしを握る。覚悟を決める。
保健室は未だ闇の中、ただただ遠牧先輩のすすり泣く声が聞こえる。