■プロローグ
今日も、君の扉に触れる。
押して、引いて、ずらして、叩いて。
それでも、君は、開かない。
◇ ◇ ◇
「受験番号024、川越 翔馬。目指すのは、あらゆる役を演じられる、幅広い役者です」
◇ ◇ ◇
役者とは、与えられた役を、台本に沿って、まるで現実であるかのように演じるもの。
自分でないものを、そうであるかのように振舞う。
事実でないことを嘘と定義するならば、役者とは、嘘をつく職業である。
しかし、根も葉もない嘘に、人の心は動かない。
故に、役者は、自らの生によって演技に血肉を通わせる。
だから、当然に、得意な役、苦手な役が生じてくる。
経てきた人生、得てきた経験、育ててきた気質は、誰一人として同じではないから。
以上の前提に立てば「あらゆる役を演じられる役者」というのは、荒唐無稽な目標だ。
けれど、川越 翔馬は、その到達点を敢えて掲げて、天凌に入学した。
認められるだけの力量を示し、さらに、無謀を当然のように語る度胸が認められたのだ。
◇ ◇ ◇
だからだろうか。
私は、川越 翔馬を受け入れがたかった。
ひとりの教師として、この生徒に、ほかの生徒たちとは違う、違和感を覚えたのだ。
力量は申し分ない。
だが、演じることとはもっと、別の何かを目指しているような、そんな奇妙な感覚。
それを拭えぬまま、自分は脚本読解のワークショップで、彼の演技を見続けている。
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。
どちらが気高い心に相応しいのか。
非道な運命の矢弾をじっと耐え忍ぶのか。
あるいは怒涛の苦難に斬りかかり、戦って相果てるか――」
世界で最も有名な演劇のひとつ。
シェイクスピア『ハムレット』。
その背景を解説し、それを踏まえた感情で朗読をする。
ことを荒立てず、己の誇りに蓋をして耐えるのか。
たとえ自らを危機に晒すとしても、一歩を踏み出すのか。
その懊悩を演じ、生徒たちは思い思いの解釈でセリフを口にする。
順番は、川越 翔馬に回ってきた。
彼はまず、私を見た。
そして、小さく頷くと――
「――生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
そこに込められた感情は、懊悩ではなかった。
私の講義で説明した内容からすれば、それは見当はずれの演技である。
他の生徒たちが首を傾げる。
優等生のはずの彼の、「失敗」に。
「どちらが気高い心に相応しいのか?」
だが、川越 翔馬は、私を見ていた。
おそらく、私の、懊悩を見ていた。
その上で、セリフに、問いかけを乗せた。
『その懊悩には、答えが出ているのだろう』と。
故に、川越 翔馬の言葉に乗せられた感情は、懊悩ではなかった。
答えが出ていながら、それを選択することができない状況への、苛立ちであった。
私は、講義終了後、彼を職員室に呼び出した。
◇ ◇ ◇
「君は、「心を読む」魔人だね?」
「はい」
悪びれもせず、彼はうなずいた。
なるほど、演技審査での成績が特筆して高かったわけだ。
なにをどこまで読み取れるかはわからないが、審査員の心象が把握できるならば、好印象を持たれるように演技をその場で調整することもできる。
もちろん、相応の演技力あってのことだろうが。
「けれど、それが有効なのは少人数の審査員によるオーディションまでだ。多人数を相手にする本番の舞台や、テレビドラマ、映画撮影では、通用しない」
「わかっています」
それでは、彼は、何を求めて役者を志したのか。
能力とは別に純粋に演技が好き、というわけではないように思える。
そもそも、魔人能力は個人の認識の発露。
個人の心を読み取る、ということを重んじる彼が、多くの人間を楽しませる役者を志すというのは、奇妙に感じられる。
そんな疑問を読み取ったように、いや、事実、心を見て看破したのか、川越 翔馬は淡々と彼の「目的」を口にした。
「俺には、演技を見せたい相手がいます。ずっと病院で、面会もひとりずつしかできない。体内の精密機器でかろうじて生きながらえていて、スマホどころかテレビもろくに見られない。そいつに、俺は、最高の舞台を見せたいんです」
言葉を失う。
彼は、ただひとりの観客のために、自分が、ただひとりの劇団となるために、この学園に入ったのだという。
あまりにも小さな、視界の狭い、個人的な目的。
そんな話を聞いて、教師として言うべきことは、ひとつしかなかった。
「……君は、能力に頼らない演技を広げるべきだ。その時々、観客の心情に寄り添う最適解を追うだけでは、演技の一貫性が担保できない」
◇ ◇ ◇
後で、私は知ることになる。
彼は敢えて自らのスペアプランが最終目的であるかのように示し、まんまと私の「心の扉」を開いて、協力を取りつけたのだということを。
友人に演技を見せるため、というのは、彼にとって「次善の策」。
本命の目的は、『天凌の奇跡』。
即ち――親友の、不治の病の快癒である。