■プロローグ
Humpty Dumpty floated in the sky,
Humpty Dumpty had a great fall.
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Couldn’t put Humpty Dumpty together again.
ハンプティ・ダンプティが空に浮かんだ
ハンプティ・ダンプティが落っこちた
□□□□と□□□□の全部が力を合わせても
ハンプティ・ダンプティを元に戻せなかった
⁑ ⁑ ⁑
とある学説がある。
それは冒涜的にもヒトをあくまでただの動物の一種とみなす反知性的な暴論の提唱である。
大言壮語にもほどがあるというその言葉はしかしある種の人間には正論として受け止められる。
それは「ヒトは自己を保存するために欲求を持って生存している」というものだ。
概略としては以下となる。
第一は「子孫を残すこと」。自分の遺伝子を未来へ残したいという欲求である。
第二は「長生きすること」。自分が生きることで自己を残すという欲求である。
第三は――「共同体に波及すること」。
自分の所属する共同体に影響を与えることで情報遺伝子を残したいという欲求である。
この学説がもし真実だとすれば。
このボクはどんな欲求を持っているのだろうか。
⁑ ⁑ ⁑
「……コトリ、コトリ。お前、いっぱい食べるんだから朝だし起きろよ」
ぼやけた目を薄く開けると元気に跳ね返った茶髪がゆらゆら揺れているのが見える。
憎たらしくもボクの身体を優しく揺り起こすために早起きしたらしいルームメイト――皐鯉 鍛吾は寝ぼけ眼をこすりながら大きくあくびをした。
「……タンゴも眠いならもっと眠ればいいのに」
「それで恨み言を後で吐くのはいったい誰だよ」
「だって何を食べても美味しく感じないんだもん」
「その不満足を量で補うのは、好きなものだけ食べてたいおれにはわからないんだよなあ」
嫌々身体を起こして目を瞑り、一拍遅れてとろりと開けば鍛吾が頭を撫でてくれる。
ボクの頭をすっぽり覆うその大きな手が、ボクは好きだ。
みるみる四肢に力がみなぎってくる。鍛吾はいつだってボク――上巳節 理織に力をくれる。
だからいつもの言葉を口にする。
「ありがと、タンゴ」
「どういたしまして、コトリ」
返事が返ってくるのが嬉しくて、ボクはまた目を細めた。
演劇専修科の座学はいつだって退屈だ。
「……こうしてイベリア半島で興ったこの舞曲は南米に輸出され、部門として確立し……」
文化を、文脈を知るのに知識が必要なことは、理解る。
だけどそれなら身体を動かしながら説明してもいいんじゃないだろうか。
進級してまだ一ヵ月という現実が信じられないほどにボクは飽いていた。
廊下側の壁沿いの席に座ったボクは頬杖をつきながら教室を一望する。
そういえば、そうだった。
ここにいるのは根っからの演劇バカばっかりで、一回踊り始めてしまったら、もう先生の言葉なんて指導しか耳に入ってこないのだ。
座学というのはバカのために必要なものなのだ。
――例外なく、ボクもそうなのだけれど。
「……では、上巳節さん。このタンゴという言葉の由来はなんでしょう?」
急に当てられたことに面食らいながらも、予習で覚えていた――その音の響きだけで記憶に残ってしまった――その単語を慌てて口にしようとする。
しかし水を差すようにボクの声を掻き消してしまうチャイム。
老教師は自分の腕時計と壁掛け時計を何度か見比べると、教卓の上の資料をまとめてさっさと教室を後にしてしまう。
肩透かしを食らった。
不服をぶつけることもできないまま乱雑にノートや教科書を机の中に仕舞おうとしたとき。
「よう、人形野郎」
ボクの机を、同じ教室にいるだけの人が蹴ってくる。
二年生になって同じクラスになってからやたらと構ってくるようになってきた三人組だった。
――ボクはこの連中がボクに向ける目つきが大嫌いだ。
睨みつけるような、値踏みするような、それよりもっと下卑た視線が自分に絡みつくことは耐えられない。
「……なに?」
「なにとは何だよ。昨晩だってよくしてくれたじゃないか」
それにこいつらはこうして毎日のように「意味の分からない因縁」を浴びせかけてくるのだ。
「せっかく盛り上がってたってのに、頬を張ったら消えやがって」
「能力使って神出鬼没も大概にしろよ、おかげで今日も寝不足なんだ」
「……なあ、お前黙ってないでいい加減認めろよ」
……聞くに堪えない雑音。
「「「『男子寮の夜鷹』はお前のことだろう?」」」
教室が静まり返る。
それはそうだ。こんな下品な言葉、誰が聞きたいと思うんだろう。
飽き飽きとして目を逸らしていたものの、いよいよ我慢ができなくなって、全力で不機嫌を滲ませながら睨み上げる。
「よくそんな言葉……鄙しいとは思わないの?」
体格差なんて構わず、一番でかいやつがボクに掴みかかる。
拳が振りあげられ、恐らく魔人能力を乗せ眼前に迫りくる。
――怖い。
目を瞑る前に、ボクの視界は切り替わっていた。
宙に放り出されたボクは教室の床に叩きつけられ、しりもちをついてしまう。
「……コトリ?」
痛めたお尻を撫でながら顔を上げると、見慣れたルームメイトの顔がそこにある。
「いてて……タンゴ? あれ?」
「……コトリって能力使うときいつも高いところから落ちてくるよな」
その辺制御できるようになった方がいいよ。
そんなことを言いながら、隣の教室で鍛吾が当たり前のように手を差し伸べてくれる。
「結構強く打ったよな? 保健室で湿布でも貼ってもらおう」
いいって。そう断っても鍛吾はボクの手を引いて歩き始めてしまう。
――指先から鍛吾の熱が伝わってくる。
それがどうしても嬉しくて。
思えば、どうしてその時、いや、もっとその前から気づかなかったんだろう。
鍛吾はいつだって、理織が衆目に晒されるのを厭ってはいなかっただろうか?
⁑ ⁑ ⁑
いつもよりも遅くなった部活の終わり。
食堂なんてとっくに閉まっていて、夕食を食べそびれた事実に気持ちが沈む。
差し入れとして並べられていたサンドイッチは萎びていたし、おにぎりは海苔も米も食感が嫌いだから美味しくなかった。
好き嫌いが多いボクにとって、満腹になるのは数少ない「満足」を得られる機会だというのに。
部長たちはボクが小柄だからという理由だけで一口で食べられるような、お上品なものばかりを用意する。
そんな、部室からの帰り道はいつだって濁った気持ちになる。
「……お腹、減ったな」
今日は、いつにも増して褒められた。
『そう、そうそうそうそうそう! 完璧だよ! 隅々まで人形として行き届いている!』
『関節が細いから、理織ちゃんが着ると男ものでも女ものでも映えるのよね。作り甲斐があるわ』
『ここから成長しちゃうのがもったいないな。時間が止まればいいのに』
どれもこれも、自分勝手で理織というものを見ていない。
それでもやめられないのは、自分でも嫌というほどモデルという役割が似合いとわかるからだ。
手放してしまうのはどうにも恐ろしく感じていた。
革靴のかかとを不満げに鳴らしながらレンガ敷きの道を行く。
遅い時間。人影はまばらだ。門限に間に合っているのがまだ救いだろう。
ずっしりと重い鞄をなんとか持ち直して自室を目指した。
「おい、夜鷹」
無視。うざったるい声が背中から足を止めようとするなど日常茶飯事だから。
「足を止めろよ人形野郎」
無視。それでも力に訴えるというのであればいつものように能力で逃げよう。
「こ、コトリ」
無視、できなかった。聞き覚えのあるその声は、ボクを振り返らせる力があった。
怖気と共に声のする方を向く。
「……タンゴ、なんで」
ニタニタと嗤う三人組に捕らえられた鍛吾が、震えながらボクを見ていた。
乱暴に雑木林に連れ込まれたボクと鍛吾は、堆積した落ち葉の上に転がされる。
体のあちこちが既に痛い。それよりボクは鍛吾のことが心配でならなかった。
隣で素早く起き上がった鍛吾は威嚇するように三人組を睨みつけ、震える手でボクを庇う。
その頬はすかさず革靴で蹴り飛ばされる。吹き飛ばされてしまった鍛吾に這い寄ろうとするが、そんなボクすらをも革靴は踏みつけた。
「お前は黙って見てろよ、加害者」
本当だったら舞台の上で映えるだろうその長身は今はただボクを圧倒する拘束具になっている。
はらはらと見守るボクの前で、鍛吾はそれでも立ち上がった。
――どこからともなく、情熱的な伴奏と鼓舞をするようなコーラスが響き始める。
鍛吾の能力だ。自分の精神状態の昂ぶりに応じて最適な音楽が自動生成されるというものだ。
ああ、この音楽はきっと、本来こんなところで響くべきではないはずなのに。
何故かボクはそれが嬉しいと感じてしまっていた。
勇敢にも鍛吾は立ち向かう。
その手はいつかボクの手を取って踊ってくれるものだったかもしれないのに。
滑稽にも鍛吾は足払いをされる。
その足はいつかボクとワルツのステップを踏むものだったかもしれないのに。
無残にも鍛吾は顔を殴り飛ばされる。
その顔はいつだってボクに向けて笑み、希望を満たすものだったはずなのに。
殴られて。殴られて。
殴られて。殴られて。
やがて流れていた音楽は小さくなり、曲調が変わる。
悲壮で絶望的な、終わりの終曲に。
ボクはそうなっていくのを、何も言えずに見ていただけで。
やがて鍛吾は膝から崩れ落ち、闘志を失い抜け殻となった。
「……コトリは、傷つけないくれ」
頼む。その哀願はあまりにも痛ましい。
その言葉を聞いてハッとして、渇いていた喉が、やっと声を紡ぎ出す。
「……タンゴ、を、もう、傷つけないで」
――違う。
これは鍛吾を庇うための言葉じゃない。
これは鍛吾を傷つけて欲しくなくて出た言葉じゃない。
これは、鍛吾に嫌われたくなくて出てきた言葉だ。
優しい鍛吾をなぞった、自分本位の猿真似だ。
でも、多分、その言葉が契機だった。
「なら」
ぐったりとした鍛吾がボクの上に投げ出される。
ボクは鍛吾の体重で肺の空気が押し出されるのを嫌だと思ってしまった。
しかしその思考は一拍も置かずに掻き消される。
「お前がそいつを犯せよ」
頭の中が真っ白になる。
こいつは、何を言っている?
ボクに覆いかぶさっている鍛吾の表情は見えない。
取り巻きがボクの身体を押さえる。嫌々をしても身体が動かせなくなる。
ゆらりと、鍛吾が手慣れた様子でボクの輪郭をなぞりながら身体を起こす。
甘くゆるやかな譚詩曲が流れ始める。
「……あ、?」
冷たい星明かりの下で。
目が合った鍛吾の目つきは、ボクが嫌いな連中がボクを見るときと同じ鄙しさを湛えていた。
頭を殴られたような衝撃が走る。
その衝撃の正体を理解したくもない。
ままならない思考を湛えたまま、反射だけで動く身体が鍛吾を拒絶しようと、大好きな鍛吾を拒絶しようと叫びながらばたつかせる。
服を脱がされたくない。うわ言のような謝罪を聞きたくない。この現実を認めたくない。
見開いた双眸はやがて、鍛吾の肩の向こうの空に幻覚を見た。
ボクがボクたちを無表情で見つめていた。
誰が見ても都合のいいその顔立ちは、今は微笑んでいるように見える。
ああ、いいな。
どこまでも、どこまでも、そのまままっすぐに空へのぼってのぼって行けたのなら。
ここじゃないどこかへ逃げ出すことができたのなら。
瞬間、ボクの視界が切り替わる。
空へのぼることもできずにすとんと草むらにしりもちをついたボクは。
少し離れた場所から鍛吾たちに組み敷かれた「もうひとりのボク」が嬉しそうに鳴くのを誰にも存在を気づかれもしない鄙びた場所から見ていた。
ガチャリ、ガチャリと、頭の中が壊れていく音がする。
――なんだ、最初から何もかも間違っていたのはボクの方じゃないか。
痺れていた部分に血が通い、感覚が蘇っていくように、自分の能力が理解できるようになる。
世界がひっくり返るような感触はしかし、ようやく得心がいったとしか言いようがなかった。
やっと手に入れた全能感。
全てを塗りつぶしていく鄙劣な感情。
それらがすっぽりボクの中に収まったが、最後。
爛れている視界の先で、鍛吾とボク以外の部外者が邪魔だなと思ってしまう。
要らないな。
だってボクは被害者だから。
そんなことをぼうっとした頭で考えたら、声なき呼び声に従うように半透明に透き通ったボクが三人、空中に現れる。
――やっちゃえ。
命じる。
都合のいい顔をしたボクたちはその身に蓄えた暴力を腕に籠め、躊躇わずに振り下ろした。
死角からの一撃。
軽いかと思ったボクたちの拳はしかし簡単に三人の頭蓋を砕き身体を裂きながら落ち葉を巻き上げて地面に突き刺さった。
ボクたちはそのまま否定する。否定し続ける。
グチャリ。グチャリ。グチャリ。グチャリ。
邪魔者は血液を、肉片を、脳漿を、骨片を、体液を、臓物を、内容物を、糞尿をまき散らしながら跡形もなく蹂躙されていく。
ふと、ぽっかりと口を開けてその惨劇を眺めていたボクの口腔に。
偶然、飛び散った血の一滴が入ってしまって。
――ボクはそれを「美味しい」と思ってしまった。
ボクの何かが、更に壊れていく。
思考回路は焼け焦げ、飛躍する。
だってボクは、これが鍛吾の血だったらどれだけ美味しいんだろうと思ってしまったのだから。
ゆらりと幽鬼のように立ち上がったボクは、必死な鍛吾の背中にそっと頬を寄せ、抱き締めた。
汗でしっとりと濡れた躰は、少したくましくて、やっぱり愛おしい。
目を細めて唇を押し当て、そのまま首筋に嚙みついた。
ビクンと、大きく鍛吾の身体が跳ねる。
口の中を満たし、喉の渇きを潤す鍛吾は甘く旨く潤しかった。
ずっと自分の中で飼い殺されていた渇望が暴れ始める。
こんなに美味しいものを口にしたことがいまだかつてあっただろうか。
バキバキと音を立てながら鍛吾を抱き潰して、ボクは必死に血を貪った。
――ああ、やばい。ボク、お腹がいっぱいになっちゃいそう。
そして愛を睦む音楽は病み、世界は静けさに包まれる。
……いつの間にか腕の中から鍛吾は消えていた。
残されたボクたちは初めて満たされた感慨に浸りながら哄笑が止められなかった。
⁑ ⁑ ⁑
「……タンゴ、タンゴ。ボク、いっぱい食べたいから今夜もよろしくね」
とろけた目を薄く閉じると湿気で跳ね返った茶髪がゆらゆら揺れているのが見える。
艶めかしくもボクの分身を激しく突き上げているルームメイト――皐鯉 鍛吾は一心不乱に腰を振りながら大きく痙攣した。
鍛吾はボクをもっと強くするために精をくれている。
毎夜毎夜よく恨み言も吐かずに励んでいるものだと思う。
でも――仕方がないことなのかもしれない。
だって鍛吾はもう理織の眷族になっているんだから。
もぞもぞ身体を毛布に包んで、ボクは分身が鍛吾に抱きしめられているのをベッドの上に丸まって見ている。
ボクなんかじゃ到底行けない向こう側のベッドが、ボクには果てしなく遠かった。
だんだん四肢の力が抜けていく。鍛吾はいつだってボク――上巳節 理織の心を奪う。
だから、いつもの言葉を口にする。
「ありがと、タンゴ」
返事が返ってこないのにもすっかり慣れて、ボクはまた目を閉じた。
あの学説が頭をよぎる。
それは冒涜的にもヒトをあくまでただの動物の一種とみなす反知性的な暴論の提唱である。
大言壮語にもほどがあるというその言葉はしかし今のボクには正論として受け止められる。
上巳節 理織はずっと、自分の欲求がわからなかった。
子供の頃の大病で、種も残せず大樹にも至れなくなったこの身には何もかもが遠く感じていた。
でも今は違う。
吸血鬼となった今、そして「あの声」が聞こえた今。
やるべきことはもう決まったようなものじゃないか。
――ボクの眷族を増やし王として君臨する。
それは、ボクが明確に抱いた初めての自己保存欲求だ。
戴冠式を迎えるその日まで、この熱情は燃え立つほどの幸福になるだろう。
ふと、我慢ができなくなって笑い声が止められなくなる。
いくら声を殺しても殺しても溢れてくるそれはやがて視界を滲ませた。
共鳴するように分身も嬌声を上げ、夜の部屋にボクの声が響く。
ボクは。
空虚人形は今日も満足だ。