天凌学園第八閉架担当戦闘司書、蓑田 洞助の朝は早い。
――毎日増える『本』と『迷宮』の管理は、いくら時間があっても足りません。
朝食は白米が500gと、野菜スープを1杯、鶏肉を150gに、卵1つ。
良質なタンパク質は、この過酷な業務を支える肉体の構築に不可欠だ。
――『本』の管理業務は、筋肉への負荷を意識しながら行います。
食事を終えると、蓑田は図書室に入る。
――全身の強化を欲張ると、うまくいきませんからね。
天凌学園第八閉架は、特殊な空間だ。
建築物設計図とは明らかに噛み合わない空間の広がり。
日々形を変えるそこは、間違いなく『迷宮』だ。
――『胸』『背』『肩』『腕』『脚』のトレーニングと適切な食事が肝ですね。
大量の『本』を積んだカートを引くのは、それだけでもはや過酷なウェイトトレーニングだ。
ホエイペフチド40gと、CCDを70g、加えてBCAAを15g。業務中の栄養補給も欠かさない。
ボディビルダーめいたストイックな姿勢。
彼にそこまでさせる理由は、なんなのだろうか?
――半獣として生まれた私を、この学園に推薦してくれた人がいましてね。
――この図書館を任されて……私のような脳筋馬鹿に務まらないと言ったのですが。
――『脳筋結構。己を鍛え続ける姿は、脳を鍛えるこの場の守り手に相応しい』と。
――『半獣であろうと、魔人であろうと、他人を想い合う場が、天凌の理想だ』と。
――その言葉に、私は救われました。だから、ですかね。
鍛え抜かれた鋼のような肉体と裏腹な、少年めいたはにかんだ微笑み。
それもまた、繊細に『本』と向き合う彼の本質だ。
取材中、第八閉架を巡回する蓑田の前に、『獣』が現れた。
赤黒い毛皮。
滴るような雫。
十一本の尾。
輪郭が熔けるように歪んでいく、狐。
およそ、知識の集積所、図書館には相応しくない存在だ。
――ああ、やっと来ましたか。
けれど、蓑田にとって『それ』の出現は、想定内のものだったようだ。
――これはね、『本』になる前の『想い』ですよ。
上着を脱ぎ捨て、圧倒的な密度の筋肉を剥き出しにする。
ただの服ですら、蓑田の自在な肉体にとっては枷でしかない。
――この学園の奇跡の一つ。『伝えられなかった残留思念の書籍化』。
噂に聞いてはいた。
第八閉架には『世の中に存在するはずのない本がある』と。
たとえば、誰も書き残さなかったはずの、50年前の学園祭に関わる思い出だとか。
学園の創立に関わる、霊脈を巡る争いの真相だとか。
そういった、『どこかの誰かが書き残せなかった想い』が、本として収められていると。
であれば、この『獣』は、誰にも知られず消えていくことに対する、怨嗟の念なのだろうか。
第八閉架の『本』とは、そんな念を折伏し、形を整えて、生み出されたものなのか。
――ご安心を。そのための、戦闘司書です。
蓑田は取材班を下がらせ、『獣』と相対した。
握られた拳は、それだけで戦車主砲の砲弾めいている。
目の前の男の脅威を認めたのか、『獣』が吠えた。
その周囲に、無数の『狐火』が生まれ、驟雨めいて降り注いだ。
――『 筋肉迷宮組曲』
瞬間、空間が歪んだ。
大気が揺らぎ、捩れ、光の屈折が、虚空にとある形状を具象化する。
鍛え抜かれた腹直筋。腹横筋。腹斜筋。腰腸筋。
即ちこれは腹筋ガー
――おっと、版権に引っかかるのでそこから先はタブーですよ。
リングにフィットする大冒険めいて、狐火の雨を筋肉の具現たるバリアが阻む。
――ともあれ、残留思念では、本物ほどではない。私ひとりで十分でしょう。
そこからは、一方的だった。
全ての攻撃を鋼の肉体が受け止め、抱きとめ、締めあげる。
戦いの中にありながら、蓑田の表情はどこまでも穏やかだった。
――狂おしいほど伝えたい想い。それを受け止めるのが、『本』作りの第一歩です。
古の英雄、ヘラクレスがライオンを締めるように、女神アテナが眷属のフクロウをねぎらうように、蓑田は『獣』を両の腕で抱き締め、極め、折り、畳み、平らに収め――
そして、一冊の『本』が新しくできあがった。
――そうか。君は、そういう気持ちを、彼女に伝えたかったのだね。
――承知した。その想い、私が責任をもって、彼女に届けよう。
しばらくその場でページをめくり、蓑田は、愛おしむように表紙を撫でた。
――万能の天才に焦がれた凡人、か。
――もし彼女が真に万能で、『 惹きつける無償の愛』が、全てを手にできる権能の象徴なら、
――彼女が望むものをなんでも手にできるのだとすれば、
――彼女は、君の手をこそ、最初に取りたかったのだと、私は思うがね。
後日、その本は、図書室を訪れた保健教諭、那須 ほがらかに貸し出された。
取材を終え、私たちは蓑田に、この危険な仕事への想いを問うた。
――そうですね。天凌は、『他者を想う』場所だと、私は思います。
――演劇が盛んなのは、それが『他人』に想いを馳せる行為だから。
――魔人を集めているのは、彼らがともすれば『一人』で孤独に完結してしまうから。
――他の子どもたちと同様、魔人や半獣が異端とならず、繫がりを作れる場所。
――だからこそ伝わらないはずの想いを『本』として残すこの場所は、大事なのだと。
――失われぬよう。安易に使われぬよう。守り手が必要な『迷宮』たるべきだと。
――そんなふうに、私は、この筋肉でできた単純な脳で、考えるのです。
白米300gに、鶏むね肉120g、卵をひとつ。
無駄も遊びもない食事を取りながら、蓑田は満面の笑顔を見せてくれた。
天凌学園第八閉架担当戦闘司書、蓑田 洞助。
学園の『奇跡』のひとつは、この愚直な守り手によって、今日も静かに回っている。