「なあ、観月」
「どうした」
「……すごいな、舞台って」
「四波平家では、観劇なんて当然じゃないのか」
「兄貴はな。俺はひたすら道場で稽古。ま、部屋で動画とかは見てたけど」
「……そうか。まあいい。演技をするなら覚えておけ。
これが、どれだけ配信サービスが広まっても、ドラマや映画の技術が進歩しても、まねできない――」
「――『舞台の奇跡』という、やつだ」
『人よ、人よ、人の子よ』
『我らは遍く音を紡ぎきた』
『音にて世界を織りなした』
『しかして我は去り行こう』
『琴をつまびく指は止まり』
『我らの歌は今宵消ゆる』
『世に終わらない生はなく』
『世に消えぬ火のないように』
『引かれぬ幕のないように』
『故に、至れよ人の子よ』
『我が音の先の景色へと――』
睥睨するは俯瞰の瞳
演じ踊るは模倣の精華
虚ろ器に注がれた、熱は模造と断ぜるや
はじまりの音楽神役――天龍寺 あすか
傷と痛みとは、人知の性
其を知り癒すは全知の聖
神へ至りしその先を、任ずる少女は何求む
はじまりの音楽神役――至神 かれん
『神はこの地を捨てたのだ』
『人の奏でる音楽は、神たる者らの忘れ形見』
『残響残滓に他ならない』
記憶に積もった埃を払い
確かめ合った想いの形
愛の名をもて誓いを演じて示す
探究の苦悩者役――白露 アイ
探り求むは人の業
虹のふもとを追うが如く
若人よ、アマゾンへ行け
探求の苦悩者役――深林 めぐり
『それでも――もう』
『私の心は音を聴かず、魂は震えず』
『君の奏でる歌も、私の闇を払えない』
鏡の中に手を伸ばす
追えども触れ得ぬ陽光へ
命を薪に羽ばたく翼
音忘れの君役――五十鈴 陽乃
記憶の影へ手を伸ばす
追えども触れ得ぬ郷愁へ
黄泉人不知の想いを抱く
音忘れの君役――飯網 千狐
『神よ。貴方の旋律は素晴らしい』
『だが、その絶対をこそ、我らは乗り越える』
『それは地図なき道を歩むこと』
『太陽を失った月の朔。暗く、暗く――』
伝説の、アクションスターの血を引いた
サラブレットの成れの果て
涙の雨に蛹を脱いだ、一夜限りの月下蝶
詩人役――四波平 月張
酩酊、疾駆、緑の瞳
陰と影より生まれし鬼子
此度演技に縁起は不要 舞台跳ねるは蒼の馬
詩人役――酒力 どらいぶ
『だけど』
『ならば』
かくて中庭にて、運命の幕が開く。
観客は、天凌の生徒たち。
かくて正門にて、運命の幕が開く。
観客は、天凌の霊脈を奪わんとする妖狐たち。
『――あの鐘を――』
それは、奇跡の鐘を鳴らす舞台。
それは、奇跡の鐘を守る舞台。
【暗】 【転】
【第一幕・中庭定例公演側】
(語り:白露 アイ)
中庭に展開された、仮設舞台。
幕に投影された星空と鐘とを背景に、劇中のセリフの断片を語る。
まず、はじまりの音楽神の役、天龍寺さん。
そして、その神の音楽を模倣しようとして苦悩する、探究の苦悩者として、わたし。
次に、音忘れの君を演じる、五十鈴 陽乃さん。
最後に、主演である詩人を射止めた、四波平 月張くん。
これが、幕開け前の演出だ。
舞台の前で、羽曳野さんが指揮する演奏班がオープニングテーマを奏で始めた。
結局、わたしはお嬢様と鐘を鳴らすという目的を達成できなかった。
けれど、お嬢様は朗らかに送り出してくれた。
「アイは本当に凄いんだって皆に分かってもらったもの。私はそれで十分。
あのメンバーと並んで舞台に立つのだから。胸を張りなさいな!」
その笑顔で、わたしは報われた。
心の隅で埃を被り続けていたわだかまりも消えた。
私の奇跡は、叶ったと言っていい。
だから――
わたしは、四波平くんと、五十鈴さんを見た。
主役と準主役。
輝かしい役を射止めた二人の表情は、固い。
――『記憶の地平線』
連想するのは、始まりの記憶。
赤子のわたしに忍び寄ろうとする、白露家の二人と同じ気配。
何か、大きな、取り返しのない企てをしようとする、覚悟と緊張。
「固くならないでくださいよ。
四波平先輩は、このカンパニーの座長なんですから」
場を和ませるように、天龍寺さんが笑った。
ずっと年下なのに、彼女はムードメーカーとして完璧だ。
場に足りないところをさりげなく支えてくれる。
本当なら最年長のわたしがすべきことを、全部先回りされてしまう。
「ああ。……天龍寺、五十鈴、白露先輩、いい舞台にしよう」
「ええ」
「はい!」
「そうですね、よろしくお願いします」
足りない備品の手配も
みんなへの差し入れも。
困った人へのアドバイスも。
――自己犠牲で潰れそうな二人の目論みを覆す、暗躍も。
天龍寺さんと目が合う。
第一幕は、はじまりの音楽神がメイン、彼女の独壇場だ。
「がんばりましょうね、白露先輩」
意味ありげな目くばせが向けられるのは、わたしにだけ。
天龍寺 あすかと、白露 アイは、秘密裡にとある同盟を結んでいる。
主演の四波平くんと、助演の五十鈴さんには、内緒の関係だ。
天龍寺さんは教えてくれた。
この舞台は、脚本通りに演じ切ればハッピーエンド――ではない。
主演は、助演は、この舞台で、燃え尽きようとしている。
自らの犠牲の上で誰かを助けるために、奇跡を起こそうとしている。
そんなことは認められない。
そんなことは受け入れられない。
だって、そこには、報われる愛がない。
だから、私は、天龍寺さんの誘いに乗ると決めた。
詩人が命を賭けて鐘を鳴らし、その未来と引き換えに、音忘れの君を救う。
そんな結末を書き換える、企みに。
【暗】 【転】
【第二幕・正門攻防戦側】
(語り:至神 かれん)
アマゾンの熱帯雨林の中に、舞台が出来上がり。
超絶技巧のヴァイオリンが、公演の始まりを告げていた。
観客席にいるのは、武装した黒服の男たち。
天凌の奇跡の源、『霊脈』を取り返すため、神様ちゃんはじめ、色んな女の子たちの運命をもてあそんだ黒幕『妖狐の長』とやらの尖兵だ。
その半数は『ストラディバリウスの魔』に心を奪われ。
残る半数は、長門 艶奏くんの旋律に従った、体長5mのアマゾンキツネクイオオタヌキ(さぐり能力空間内固有種)に動きを牽制されている。
中庭では、ナミーくんさんたちの舞台が開演する頃だ。
那須先生によれば、今日が50年に一度、、『霊脈』に最も多く力の潮が満ちる巡り。
今まで搦め手で学校を混乱させ、奇跡の基盤となっていた学生たちの共通認識をゆるがせにした総決算として、奴らが襲撃してくるとすれば、今しかないのだと、そういう話らしい。
神様ちゃんにはよくわかりませんが、餅は餅屋、狐のことは狐さんにお任せ。
実際、彼らはやってきたのでオールOK。
運命の舞台に立てないことが決まった以上、神様ちゃんの目的はひとつ。
黒幕気取りへの、八つ当たり。
聞けば、学園のマスコット、飯綱 千狐ちゃんもまた、その犠牲者とのこと。
学園の混乱が目的なら、フィクサーだと思っていた四波平 日向も、『妖狐の長』とやらの手のひらの上であった可能性は高い。
そうなれば、荊木 きっど行方不明事件も、五十鈴 陽乃の事故死も、元を辿れば、『霊脈』を巡る争奪戦の一貫で発生したことになる。
「――ってことで、こっちの舞台は、『奇跡の舞台』の舞台裏。
さんざ学園をひっかきまわしてくれた黒幕を叩く、八つ当たり部隊ってわけだZE☆」
「ごめんなさい、私の都合に巻き込んじゃって」
「水臭い! 一緒に『アマゾン最高!』と叫んだアマ友でしょう! レッツアマ友公演デビュー!」
ママ友公園デビューみたいに言わないでくれないかなー?!
「巻き込まれたんじゃない。
荊木のケジメをつけに来ただけさ」
ぽつりと、口にしたのは、こっちの舞台の主演、酒力どらいぶくん。
いつもより語調が強いのはきっと、ほのかに漂うお酒の匂いのせい。
今日の燃料はウィスキーボンボン何個分かな?
「それに――ガキから真っすぐ『演技に惚れた』なんて、言われちまったら。
主演張れる場を、逃すわけにはいかないからな。
だから、ここは舞台裏じゃない。表と等価値の――裏舞台だ」
わお!
これが素面でのセリフだったら、ちょぴっとどきっとしちゃうところですが。
それができないのも、彼の心の傷が故。だから神様ちゃんは認めましょう。
そろそろ、黒幕が観客席入りするはず。
そうなれば、長門くんとアマゾン固有種でも、役者不足。
きっちり全力で、はじめましょう。
もうひとつの定例公演『満天の空と約束の鐘』を。
【暗】 【転】
【第三幕・中庭定例公演側】
(語り:天龍寺 あすか)
天龍寺 あすかが演じる役は、『はじまりの音楽神』。
森羅万象を音にて形作り、祝福した超越者だ。
つまり。
かの神が音を奏でる前は、全てが空虚であった。
神はそんな、空っぽの世界を、俯瞰していたのだろう。
音を奏でたのは、それが「少しでもましだから」というの試みではなかったか。
羽曳野 琴音が、指揮棒を振った。
『音楽神のテーマ』。
四拍子の荘厳な旋律が響く。
西洋の讃美歌の楽器と構成をベースに、五音階でオリエンタルな要素を加えた、羽曳野 琴音の新曲だ。
いつかのライブ以降、彼女の音楽家としての才は、さらに華々しく開花していた。
不死鳥は、炎から再誕したのだ。
――『俯瞰症』。
異能の瞳が世界を睥睨する。
『はじまりの音楽神』にとって、音楽は「ないよりはまし」なものであり続けたのか。
世界を作り、祝福してなお、かの神の内は虚ろであり続けたのか。
否。
役の象徴である橙色のスポットを浴びて、天龍寺 あすかは、そう解釈する。
演技とは、解釈である。
脚本という断片的な情報から、役の心情を、生を、思想を理解し、体現し、表現する。
実のところ、天龍寺 あすかは、神における音の位置づけを完璧に理解できてはいない。
天龍寺 あすかにおける、演技、演劇、舞台の価値を、それに付随する熱を、定義できていないように。
それでも『俯瞰症』は、天龍寺 あすかの身体変化を観測している。
脈拍の増加。脳血流の変化。全身の筋肉の不随意な硬直。
『ただし! お前が腑抜けたマネしてみろ……さっさと別の奴について、別ルートから奇跡を目指してやるからな? 支え甲斐のある主演でいてくれよ? “天才”!』
心など、動かないはずだった。
『……貴方が焦がれた演劇はそんなに小さなものなのですか?』
全てを、見下ろしてきたはずだった。
『畜生! カンパイだ!!』
人としてましなあり方の、真似事をしていたはずだった。
けれど今、天龍寺 あすかは――
――『俯瞰症』遮断。
ワタシは、今までで、一番、熱を持っている。
主役候補の先輩二人の目的を知った時から抱いている感情。
それは、演劇の素人が奇跡目当てに主役に立候補すると知ったときよりも、はるかに強い怒りだった。
二人は真っ当な努力を重ね、真に完成された演劇を創るにたる能力をもった人間達だ。
それが、奇跡なんてものを求め、自己犠牲の道具にするために、舞台の中央に立とうとしている。
途方もなくグロテスクな願望だと、ワタシは思った。
(――ふざけるな)
そう思い、憤っている自身に驚きすらした。
『世に終わらない生はなく。世に消えぬ火のないように。引かれぬ幕のないように』
ワタシは、これだけの観客に応援されたあり方を、簡単に投げだそうとしてる馬鹿に、腹を立てている。
『故に、至れよ人の子よ。我が音の先の景色へと――』
音楽総括の、羽曳野先輩へと、視線を向ける。
美術総括の、求道先輩を見ると、小さく頷きが返ってきた。
この舞台において、主演になったのは、四波平先輩だ。
しかし。舞台の主導権は、主演だけが握るのではない。
だから、美しい自己犠牲なんてふざけた物語は、ワタシが書き換えてみせる。
(――燃えて、きたわね)
【暗】 【転】
【第四幕・正門攻防戦側】
(語り:飯綱 千狐)
かれん先輩の独唱。
傷ついたアマゾンキツネクイオオタヌキを『神の左手』で癒しながら、先輩は「はじまりの音楽神」を演じ切って見せた。
舞台による旧『霊脈の管理者』派を迎撃は、ほがらか先生の発案だ。
迎撃で前夜祭を止めてしまっては、学園生徒たちの認識を基盤とした七奇跡と、そこに繋がる『霊脈』の流れが淀む。
だから、舞台なのだと。
艶奏先輩とどらいぶ先輩の力は、舞台においてこそ、集団への抑止力として機能する。
それでもわたしには、正門でも『満天の空と約束の鐘』をやる理由はわからなかった。
戦闘の得意な生徒さんを集めて普通に戦うのではだめかと聞いてみたけれど、ほがらか先生には、ごまかされてしまった。
とにかくわたしができるのは、艶奏先輩と、どらいぶ先輩が全力を出せるように、舞台を続けること。
艶奏先輩の曲調が変わる。
『偽・音楽神のテーマ』。
はじまりの音楽神が消え、人がそれを模倣する試行錯誤の象徴。
『――嗚呼、我が写し身が、たとえ数十数百連なろうとも、あの音には届かない――』
さぐり先輩のセリフが響きわたる。
いつもの能天気でハイテンションな人とは思えない、静かで、切々とした声。
その演技に呼応するように、舞台を邪魔しようとする黒服さんたちに対する、アマゾンの阻害力が増していく。
意識が眩んだ。
――どうして。なぜなのですか、玉狐様。
聞いたことのない、嘆きの声が聞こえた。
――ああ、なぜ。千の命を捧げても。十の尾を束ねても。あの方には届かない。
はじまりの音楽神を失った、探究者のそれと同じ、届かぬものに手を伸ばす嘆き。
――それだけの力を持ち得ながら。なぜ。ぼくらを捨ててしまわれたのですか。
それはきっと、わたしの中の、里の誰かの記憶。
わたしが救えなかった、犠牲にした、だれかの思い出だ。
自罰の気持ちが湧き上がる。舞台に立つ勇気がしぼんでいく。
それを――碧なす髪を振りかざす蒼褪めた馬が、極彩色の呪いで、塗り変える。
業と、愛とで、覆い潰す。
『神の調べは陽の導。失う我らは月の朔。暗く、暗く――』
俺を見ろと。俺だけを観ろと叫ぶように。
『――だからこそ、この音は、自由だ』
酒力せんぱいは、自由だ。
動機は、『嫉妬』なのだ、とせんぱいは言った。
たしかに、そうかもしれない。
けれど、そこから溢れだす演技は心を奪われるほどに、美しい。
狐火が爆ぜる音が、消えていく。
銃声が、まばらになっていく。
襲撃者の戦意が、どらいぶ先輩の演技と、艶奏先輩の演奏に、捕われていく。
ここに舞台は、一切の暴力を飲み込んだ。
――その、はずだった。
「こんなものを」
いつの間にか、熱帯雨林の地面から、赤黒い液体が、染み出していた。
その液体は、観客席の黒服さんたちを、飲み込んで、溶かして、取り込んでいった。
ひとり、またひとり。
とぷん。とぷん。とぷん。
沈んだ狐たちは、浮かび上がらない。
いつか見た、記憶のように。
「こんな、児戯のために。『霊脈』は、使われたのか」
赤黒い沼の中心には、男の人が立っていた。
ほがらか先生と同じ目、同じ髪の色の、仮面のような表情のひと。
――『妖狐の長』
あれが、わたしを作ったひと。
里のみんなを、犠牲にしたひと。
さぐり先輩のアマゾン固有種が一斉に襲い掛かる。
『妖狐の長』の腕の一振りで蹴散らされる。
艶奏先輩の演奏が激しさを増す。
わずかに眉をひそめるだけで、『妖狐の長』の動きは止まらない。
かれん先輩が、舞台裏で傷ついた動物たちを癒していく。
けれど『妖狐の長』の狐火による猛攻の勢いを押し返せない。
鐘捲くんのおうちの人たちも『妖狐の長』に傷を与えられない。
あれは、わたしと、同じもの。それよりも、強いもの。
たくさんの同族を束ねて、力に変えている。
なら、舞台をやめて、わたしが、立ち向かわないと――
けれど、どらいぶ先輩は、小さく首を横に振った。
ただ『舞台を止めるな』と、その唇が動いた。
正気じゃないと思う。
けれど、どらいぶ先輩の酒気に、わたしも酔っぱらってしまったのかもしれない。
息を吸う。
わたしはこれから、飯綱 千狐ではなく。
音忘れの君として、言葉を紡ぐ。
『――嗚呼、違う。足りない。何かが。何もかもが。
私の調べは月影の仄か。陽を照り返す借り物の輝き――』
演じる。
異能により、はじまりの音楽神の音楽を聴き。
それに焦がれ、再現することに命を賭けた、求道者を。
『人の身で神威を奏でるならば。
月が陽の輝きを求めるならば。
――何かを薪としてくべなければ。』
――どうして。ぼくは、玉狐さまのようには、なれないのだ。
『――心を失った。それを技芸の炎にくべた』
十の尾が囁く。
それは、目の前の、あの、『妖狐の長』のあり方と同じだと。
『――愛を失った。それを技芸の炎にくべた』
圧倒的な天賦の才に焦がれながら、道を分かち、自分がそれに成り代わろうとして、多くの犠牲を払って、為し得なかったものの成れの果てだと。
『――恋を失った。それを技芸の炎にくべた』
無意識のうちに漏れ出ていた狐火が、『妖狐の長』の狐火を相殺する。
「――よりにもよって! そのまがいものに、私の愚かしさを演じさせるか!
玉狐! 那須 ほがらか! ヒトに『霊脈』を売り渡した背約者!!」
わたしの演技に、『妖狐の長』の感情が、動いた。
「太陽を照り返す月ですらない! 脚本をなぞるだけの真似事!
紙の月も同然の偽物! そんなもののために貴様は!」
その言葉に混じるのは、絶望。
かつて敬意を払ったものに裏切られたからこその、憎悪。
その表情に一瞬だけ、なぜかわたしは、髪をおろした月張先輩の姿が重なった。
「舞台は静かに見るものだ。
猿若三座に連れていったときに言ったはずだぞ」
ふたつの狐火がぶつかり合うその中心に、忽然と現れたのは、
「――180年も昔のことを未練がましく語るなよ、玉狐」
「よく年数まで出てくる。心残りが透けるぞ、坊や」
狐の目をした、養護教諭。
那須 ほがらか先生だった。
【暗】 【転】
【第五幕・中庭定例公演側】
(語り:四波平 明)
日と月を喰らった明かりは、静かに舞台を俯瞰する。
『全てを薪にくべた果て、月では陽には届かずに――私は、音を、失った』
スポットライトを浴び、五十鈴 陽乃が膝を突く。
『ああ――その私に、なぜ、彼は歌を届け続けるのだろう』
彼女の役は、音忘れの君。
神の旋律に触れ、焦がれ、あらゆるものを犠牲にして――届かずに絶望した。
音を失い、旋律を聞き取れなくなった、喪失の楽師。
『あの鐘を――はじまりの神が作り給うたあの鐘を、鳴らそうというのだろう』
絶望と、慟哭と、欠落と。
彼女の経歴からすれば極端に感情移入しかねない役柄を、ぶれずに演じている。
だが、彼女の目的は舞台の成功だけではないと、四波平 明は、理解している。
彼女は、まだ『奇跡』を諦めていない。
『――私に、音を取り戻させるために? けれど、私はそれを本当に――』
たとえば、このセリフは、脚本にはない。
アドリブで彼女は、少しずつ音忘れの君の心情に脚本外の解釈……「詩人に助けられることに疑問を持つ」という要素を織り込んでいる。
天凌祭の定例公演は、様々な意味で特殊なものだ。
キャストが学生の人気投票で決まる。
役者と独立した監督、演出家がいない。
演者に応じて、脚本にアレンジが加えられる。
そして、「一夜しか演じられない」舞台である。
つまり、その場での「やったもの勝ち」が成立する。
過去には、アドリブを重ね合い、ストーリーの主導権の奪い合いで破綻した例もあったようだ。それはそれでスラップスティックとして盛り上がったようだが。
五十鈴 陽乃は、圧倒的な演技力と、緻密な即興による観客の意識誘導でもって、それを行おうとしている。
彼女が狙っているのはおそらく、クライマックスの書き換え。
奇跡の鐘の主導権を、主役である詩人――四波平 明から、奪うことだ。
だが、それは容易なことではない。
多くの票が四波平 明に流れた以上、その主役が鐘を鳴らすことこそが、観客の期待。
それを覆す説得力をアドリブだけで生み出すのは、小さな板で河の流れを変えようとするようなものだ。
五十鈴 陽乃はそれでも、一縷の望みを捨てない。
その姿を、美しいと思った。
けれどそれは、『四波平 月張』の感情だ。
今この舞台に立っているのは、『四波平 明』である。
彼女の姉の命を奪い、彼女に苦しみを与え、多くの生徒の在り方を捻じ曲げて完成した罪の結晶である。
故に彼女を求める意思も資格もない。
そもそも既に『死人』である月張の想いなど、意味はないのだから。
だから、四波平 明は全力の演技で、五十鈴 陽乃の可能性を、磨り潰す。
『神の音色を繰り返し残響にすがるだけが我らの音か?』
過去の記録を徹底的に洗い出し、四波平 明は、『霊脈』と奇跡の関係に辿り着いた。
そして、養護教諭、那須ほがらかの立場にも。
先日の演説で、四波平 明は言った。
――万能の願いを叶えてくれるものとは信じ切れてもいない。
嘘である。
その時点で、明は奇跡のメカニズムを那須 ほがらかに聞いて把握していた。
奇跡の実在と、それが万能ではないことを知っていた。
何ができて、何ができないか。
代償を誓った場合どれほどのことが期待できるのかを、理解していた。
『その想いが、かの君から音を奪ったとすれば――』
自分の命と引き換えに、死亡した双子の姉を蘇生させる――これは叶う。
一定範囲で発生する未来の「死に行く命」に対する自動回復――これも叶う。
何も代償とせず、誰かの蘇生を願う――これは叶わない。
死の確定した生命に対しては、生命を代償にしなければ、蘇生は果たせない。
それが、『霊脈』の奇跡の限界だという。
だから、この物語は、この舞台は、何かを犠牲にせずに終わらない。
何かを諦めずに、幕引きはありえない。
であるならば、何を犠牲にするかは、決まっている。
四波平 明は、そのエピローグまで、淡々と演じ切るだけだ。
『――私たちは、その旋律の、先へ至ろう』
橙色のスポットライトが当たる。
照明担当のミスだ。
四波平 明は冷静に判断する。
橙色のスポットライトは、『はじまりの音楽神』の象徴だ。
詩人の象徴は、青白の光。
しかも、同じミスは二度目。
投影着色用フィルターの交換ミスが響いているのだろうか。
技術班の総括は、大道具を最もよく見せる演出ができるとして、求道 匠が行っている。
丁寧な性格の彼女でも、こんなミスをするのが一発勝負の舞台だ。
舞台はクライマックス直前。
詩人は音忘れの君と連れだって、奇跡の鐘へと向かう。
ここから先は、四波平 明と、五十鈴 陽乃の、二人の舞台。
詩人と音忘れの君、二人ははじまりの音楽神の残響、幻を超えて、鐘を鳴らすのだ。
決意を語る詩人の想いを歌う独唱『詩人のテーマ』。
はじまりの音楽神とは決定的に違う、自由な旋律に乗せた、詩人というキャラクターを表現する、象徴のメロディー。
それを歌おうと、息を大きく吸った四波平 明が聞いたのは――
四拍子の荘厳な旋律。
五音階でオリエンタルな要素を加えた、羽曳野 琴音作曲の新曲――
――『音楽神のテーマ』
四波平 明を照らす、橙色の照明。
三度目。これは、ミスではない。故意だ。
本来の筋書では、『詩人』は『はじまりの音楽神』の模倣から抜け出す、変革者だ。
だから照明も、テーマミュージックも、両者は対極のものとして演出されるはずだった。
しかし、照明が、伴奏が、その筋書に反旗を翻している。
おまえは、模倣者でしかないと。過去の美に囚われているものであると。
言葉ではなく、演出で糾弾している。
ここに至り、四波平 明は理解する。
この舞台の物語の流れを奪い取ろうとする、五十鈴 陽乃とは別の勢力の存在を。
下手から、人影が現れる。
詩人と、音忘れの君。
二人きりで語られるはずの舞台に、乱入する者たちがいる。
四波平 明は、後ろに立つ五十鈴 陽乃が僅かに息を飲んだのを聞いた。
最初にスポットが当たったのは、音忘れの君の衣装を着た少女。
リムレス眼鏡に、下ろしたストレートの髪。
白露 アイが演じるのは、かつて、五十鈴 月乃と呼ばれていた少女によく似た姿だった。
そして――もうひとりに、青白のスポットが当たる。
詩人の衣装をまとった、四波平 明とほぼ同じ体格の役者。
茶色に染め抜かれた、無造作な外はねパーマ。
アクション向けにしつらえた、特注のハーフリムの伊達眼鏡。
口元には皮肉げな笑み。
四波平 明が、その存在を殺した、四波平 月張と同じ姿を演じるのは、
――観月 藤十郎。
かつて、四波平 月張とともに、『月組』と呼ばれていた、ルームメイトだった。
【暗】 【転】
【第六幕・正門攻防戦側】
(語り:八重桜 百貨)
――あの脚本はね、私が書いたものなんだ。
前夜祭の前日、那須 ほがらか先生は言った。
――私には、幼馴染がいた。劇が好きでね。三座を巡って夢中になったものさ。
江戸三座。
水野忠邦の歌舞伎弾圧策に対して、 北町奉行 遠山景元の抵抗で郊外移転で手打ちとなった、当時の歌舞伎の新天地だ。
つまり、ほがらか先生は、それを実際に目にしてきた、不老者ということだ。
――当時、歌舞伎は悪性文化扱いでね。それがお上に抗うのが痛快だった。
迫害され、それでも、舞い続けたものたちの場所。
人から追われた、妖怪として人と隔てられた、霊力を持った獣達が、それに惹かれたのは、偶然ではなかったのだろう。
あるいは狐という変化の性が、演劇という人の営みと共鳴したのかもしれない。
――私はね、妖として、人に抗う獣たちの、旗印だったんだ。
けれど、妖狐の姫――『天凌の森』の玉狐姫は、その道を選ばなかった。
歌舞伎と幕府の攻防に、人の中にも向けられる迫害のあり方を見た。
異端は、弾かれる。異なるものは、省かれる。
それは、自分以外の何かに、想いを馳せられないからだと考えた。
――それなのに、『霊脈』を、とある男の理想のために、明け渡した。
寺子屋の傍に、枝垂桜が植樹されている。
桜の下で、童たちが遊んでいる。
――だから、あの子にとって、私は裏切り者なのさ。
異能たる者たちを集め、纏め、通常を教え人と交わる夢の楽土。
一歩間違えば妖として孤立するものに、他者に想いを馳せること、交わることを教える、一時の舞台。
――私は、あの子をこそ、この学園に迎え入れたかったんだけれどね。
たとえ作り物の、歪な奇跡によってかろうじて作られた継ぎ接ぎの日常でも。
天が定めた残酷な運命を凌ぐための、心を培う繭であれと。
――そして、この劇を一緒に観たかったんだ。
そう言って、ほがらか先生は、その名前通り、静かに笑った。
アマゾンと化した正門で繰り広げられる舞台と学園の攻防戦は、佳境だった。
深林さんの『天凌スペシャルさぐりちゃん探検隊シリーズ』により、力を奪われ。
飯綱さんの『十人十色の沼狐』が放つ術に、狐火を相殺され。
酒力クンの『極彩色の業と愛』に、精神を妬かれ。
長門クンの『ストラディバリウスの魔』に魂を狂わされながら。
鐘捲クンの親衛隊の放つ銀の銃弾を、『妖狐の長』は弾いて無傷だった。
もう人の形は失われている。
赤黒く濡れた体毛が艶放つ、巨大な獣。
輪郭は、熔けるように揺らいでいる。
明らかに無理な能力行使。きっと一時間も立たず、あの姿は自壊する。
けど、それだけあれば、アレが学園を廃墟とするには十分だろう。
「ほら、渡しに来たぞ」
「わぁ~ ありがとー!」
そんな絶体絶命の状況でも、モモカの幼馴染は、普通にやってくる。
ちょっとその普通は、普通じゃないと思う。
「この御恩は、モモカが大金持ちになったらお返しさせていただきます」
「気にしないでいいよ、別に。金払ってるわけでもないし」
いつものやりとり。
いつもの繫がり。
ずっと、続くと錯覚してしまう、敬意と親愛が作る暖かい空気。
それが――ある日、すれ違い、裏切られたと感じたら、どうなるだろう。
そのifが、目の前の獣だ。
そして――もう一つの舞台の中心に立つ、四波平クンを動かすモノだ。
だから、『妖狐の長』は、モモカの矜持を歪めたのだろうか。
だから、ほがらか先生は、モモカに引導を渡してほしかったのだろうか。
幼馴染との繫がりを守り続けていた私が、二人には、特別だったのだろうか。
「ほれ。――『最後の一枚』だ。いいんだな?」
モモカの幼馴染、若木 一郎クンは、財布から小さく丸めた紙を取り出した。
日本銀行券――ではない。
その紙に、金銭的な価値はかけらもない。
とある、買占め系ボードゲームの、おもちゃの、レプリカ紙幣。
「――なんとなく、こいつを使うこともあるのかも、って、思ってたよ」
八重桜 百貨が、はじめて、貨幣の価値を理解したきっかけ。
幼馴染とのボードゲームで、絶対的な勝敗を定める力の象徴。
魔人能力は、認識により、構築される。
金があれば、自分はもっと完璧で強くなれると信じたから、八重桜 百貨は、金を食べて力を増す。強化上限は、金に対する信頼に比例する。
であれば。
物心ついてから、金の仕組みを知った認識で生まれた強化上限が。
まだ何も知らなかった頃、幼馴染と自分の二人の世界の中で絶対の象徴であった、安っぽいおもちゃの紙幣による強化上限を、上回る理屈など、ありはしない。
これが、八重桜 百貨の切り札。
簡単に使えないように、いつもは幼馴染に管理を任せている、全てを覆すジョーカー。
――『 それにつけても金の欲しさよ:十分咲』。
全身に力が満ちる。
牡丹桜は十分咲き。
今宵、天凌正門アマゾン熱帯雨林は花吹雪。
イメージするのは、いつか見た、四波平クンのアクションの身体運用。
モモカの知る限り、最も効率的な体の動かし方を模して、ほいで――
――『 惹きつける無償の愛』
――『 筋肉迷宮組曲』
――『 全ては気持ちの持ちよう』
先生たちの異能に縛られた『妖狐の長』に、握った拳を叩きつける。
硬い。重い。まるで地球そのものを殴っているような存在感。
それでも――ほんのわずかな手ごたえが、生まれる。
赤黒い毛皮が裂け、掠り傷が、刻まれて――
――『 神の左手』
至神さんの能力が、その傷をこじ開け、獣を両断した。
赤黒い液体が、そこから溢れだす。
それはしばらくアマゾンの大地を河のように流れ――
『さあ、ここからは、俺と、君の、旋律を紡ぐ物語だ――』
酒力クンが、最後のセリフを終えると同時に、消え去った。
【暗】 【転】
【第七幕・正門攻防戦側】
(語り:飯綱 千狐)
こうして、『妖狐の長』さんによる、天凌学園への攻撃は阻まれた。
探し求めていたふるさとが、最初からなかったこと。
記憶は、わたしが犠牲にした誰かのものであったこと。
わたしを生み出した人を、殺してしまったこと。
色んな想いがぐちゃぐちゃで、でも、最初に出てきた疑問は、それらとは少しずれたものだった。
「どうした?」
どらいぶ先輩が、水のボトルをくれた。
「あのひとに、この舞台を見せるのは、残酷だったのかなって」
一番、わたしの事情に興味がなさそうだからか。
わたしは素直に、考えていたことを口にできた。
どらいぶ先輩は、笑うことも怪訝な顔をすることもなく、即答した。
「演劇に何を見るかは観客の勝手。
俺らは死ぬ気で演じるだけさ。
こっちとあっちのその間に、生まれる何かがあるのなら、それはなんであっても――」
そういえば、この舞台で、どらいぶ先輩だけが、ずっと、演じることにだけ、専念していたような気がする。もしかすると、争奪戦のときからそうだったのかもしれない。
「――『舞台の奇跡』ってやつなんだろうさ」
言葉の意味が、わたしにはよくわからなかったけれど。
「さあて、あっちはどうなるか。
四波平。アンタはなにを選ぶのかねえ?」
それでも、中庭の方に視線を向けた先輩の表情は、とても優しそうに見えた。
【明】 【転】
【第八幕・中庭定例公演側】
(語り:四波平 明)
『あなたは、誰?』
『それをあなたは、知っているはず』
舞台が、塗り替えられる。
『おまえは、何だ?』
『何をわかりきったことを』
脚本が、書き換えられる。
音忘れの君を演じる、五十鈴 陽乃/白露 アイ。
詩人を演じる、四波平 明/観月 藤十郎。
『この鐘は、神の残響』
『この鐘は、神の残滓』
鏡合わせに向き合う、一対の男女。
『ならば、その守り手が、おまえの過去であることが』
四波平 月張の姿をした、観月 藤十郎が、四波平 明へと手を差し伸べる。
四波平 明に憧れ、アクションを志したルームメイトが。
『その資格を問う防人が、あなたの過去であることが』
五十鈴 月乃の姿をした、白露 アイが、五十鈴 陽乃へと手を差し伸べる。
模倣をこそ演技の本質として、愛を演じれば右に出る者がいない少女が。
『『どうして、不思議だと思うのか』』
誰が、この構図を生み出した?
至神 かれんの本質をも看破した、四波平 明の目を掻い潜って。
視線を見れば、その方向と動きを見れば、四波平 明はその本質を見通す。
それは、異能ではない。
人の目を伺う。
ただ、兄を、祖父を模倣することにしか価値を認められなかった少年の生存術。
だが――
四波平 明は、照明担当の横で腕を組む、『彼女』を見た。
天龍寺、あすか。
彼女は、四波平 明を見ていなかった。
ただ、呆と、虚空を見上げ――
その視線の先にこそ『彼女の目』があるのだと、ようやく四波平 明は理解した。
これまで意識してこなかった彼女の異能。彼女の本質。
それは、『俯瞰』であると。
四波平 明が付け焼刃で行ってきた、人の目を介した仮初の俯瞰ではない。
人と交わることが難しいほどの生来の業としての、真の『俯瞰』だと。
もしも、四波平 明と天龍寺 あすかに、主役争奪戦で接点があれば、状況は違ったかもしれない。
あるいは、四波平 月張として、関わる全てに意識を向けるお節介を続けていれば、この少女の本質に気付けたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
だから彼女は、四波平 明に対する『完璧』で『一番』の切り札となる。
彼女を役者として完成させていた『俯瞰』の能力は、今ここに、争奪戦で培った美術と音楽の責任者とのコネクションを携え、演出家の才覚として開花した。
主演と助演の反応は早かった。
『過去よ去れ。まやかしよ去れ。
俺たちが鐘を鳴らすのは未来の音を奏でるためだ』
眼前の二人を退場させることにおいて、四波平 明と五十鈴 陽乃の利害は一致する。
即興劇は、二人の十八番だ。
『悔悟よ去れ。あやかしよ去れ。
私たちの今の道行きを阻む資格はあなたにない』
韻を踏み。筋書を踏まえ。
最初からそう決まっていたようにセリフを紡ぐ。
だが、乱入者二人は、客席に向き直った。
相対すべき、主演助演の二人を視界から外した。
『『――私は、奇跡の鐘に願う。
この命と引き換えに、『はじまりの音楽神』の再臨を』』
それは、役としてのセリフに見せかけた、暴露だった。
四波平 明と、五十鈴 陽乃の本質を暴く、糾弾だった。
白露 アイが跪き、両の手を重ねて天に祈る。
『――どれほど求めても。私は彼女に届かなかった。
同じ命が一つ場所を取るなら。同じ音を志すあり方が残るなら。
それは私ではなく、あのひとであるべきだと思うから。
――私が、ここにいることが、間違いだと思うから』
白露 アイの演技は、誰もが忘れかけていた、『五十鈴 月乃』のものと寸分違わなかった。
その上で――誰も、同じ舞台に立つものですら、目を奪われる魔性だった。
アドバイザーの先輩が口にしていたことを思い出す。
愛に関わる演技をするとき、白露 アイは、この場の誰よりも輝くのだと。
『私は彼女を憎んでいた。妬んでいた。そのはずだった。
――けれど、だからこそ、彼女ではなく私がここにいることが許せない』
彼女の慟哭は、歪み、掠れ、傷だらけではあったが。
間違いなく、愛であった。
『――どれほど求めても。俺は彼に届かなかった。
それでいいと思っていた。
遠い理想として、いつか共に奏でられる日を夢見るだけで幸せだった。
けれど――俺が音を求める中で、傷つけていた人たちがいたと知ったから。
――俺が、ここにいることが、間違いだと思うから』
観月 藤十郎の演技は、アクション課程で『観客の視線を恐れていた頃の四波平 月張』のものだった。
その上で、懸命に声を張り、見る者の心を揺らす姿だった。
『俺は誰かの心の支えになりたかった。そのために喉を嗄らしてきた。
――けれど、だからこそ、誰かを傷つけて俺がここにいることが許せない』
演劇とは、演者だけで、脚本だけで完結するものではない。
観客の知識、経験、認識に根ざした文脈によっても、演技には意味が付与される。
主役を得るため、四波平 明は、五十鈴 陽乃は生徒たちの注目を浴びた。
生徒たちは、二人の背景を自然と知るようになった。
彼が、優秀な双子の兄にコンプレックスを持っていたこと。
彼女が、双子の妹を失ってしまったこと。
彼が、この学園の激動の中で、変わってしまったこと。
彼女が、主役争奪戦の中で、いつに増して痛々しいほどの努力を重ねていたこと。
その文脈が、このセリフに、演技に、何より、『四波平 月張』と『五十鈴 月乃』の姿によって口にされたことで、明確な意味を持ってしまう。
――この二人は、どちらが鐘を鳴らそうと、奇跡に命を捧げようとしている。
橙色のスポットライトが、四拍子の『音楽神のテーマ』による演出が、詩人が過去の輝きに囚われ続けていることを、観客に印象付けてしまう。
観客席がどよめく。
自分たちの支持が、活躍を見たいという無邪気な投票が、二人が断頭台に向かう背を押していた。
その可能性に、混乱の声が起きる。
『人の身で神の音を求めるのだ。
命も賭けずに手を伸ばすほどの、傲慢さなど持ち合わせない』
四波平 明が即座に論点をずらす。
言葉の内容など、人が得る情報の3割に過ぎぬ。
ロジックよりも堂々たる様を。
かつて多くの為政者たちがしてきたように。
それこそを観客は評価するのだから。
『――ならば、なぜ、その迷いが形を取って乱れ舞う?』
観月 藤十郎が手を掲げる。
すると、上手から、下手から、無数の黒装束の人影が舞台に上がった。
その動きを知っている。
アクション課程に入って、最初に上級生たちが演じた、一対多の乱戦の技斗。
だめだ、と、四波平 明の理性が告げる。
自分には、アクションを演じる資格はないと。
そう、決めたのだから。
だが。
体が、動いてしまう。
しみついた技が、意識とは別に、溢れだしてしまう。
詩人は、竪琴を奏でる。
ならば手指を庇う。
当然、拳での応酬、手での防御は最小限に。
卓越した聴力と観察眼で相手を『見切る』ことこそ、この役の動きであると定義する。
通常であれば命中したと解釈する寸止めの拳を、わずかに体を逸らす角度を増して、避けたように演じる。
その呼吸を見て取った『黒の雑念』役が、それに合わせて動きを補正する。
顔は見えない。けれど、動きだけど、相手が誰だかわかる。
相手が、どんなことを考えているかがわかる。わかってしまう。
アクション課程の同級生。
演劇の本道から少しずれた扱いをされて、だからこそ団結していた、気のいい仲間たち。
(ばかやろう)
(格好つけやがって)
(少しは相談しろってんだ)
(一人で突っ走りやがって)
息を合わせる。
間を合わせる。
心を合わせる。
完璧な一人であろうとして。
演じていた役が、その応酬で、剥がれていく。
剥がされていく。
――思い出したか。これが、四波平 月張だ。
観月 藤十郎が、彼我を結ぶ軸から斜めに歩を進め、拳を繰り出す。
――思い出したか。これが、『舞台の奇跡』だ。
観客からは直撃するように見せつつ、拳撃の軌道をずらし、顔の横の空間を打ち抜く。
重要なのは、ずらしの大きさと、打撃の速度。
――天凌の『奇跡の舞台』だけが奇跡を生むんじゃない。
パンチが顔から遠すぎると、リアリティがない。
だが、近すぎれば実打事故のリスクを伴う。
――役者、観客、スタッフ。
打撃が速いと軌道のコントロールが難しい。
おまけに『受け役』のタイミングがシビアになる。
――他者同士が幻想を共有する、『奇跡』を生み出す機構が、舞台だ。
四波平 明の拳が頬の脇を横切る。
観月 藤十郎が、弾かれたように首を振った。拳のダメージを表現する演技だ。
――認識で現実を捻じ曲げる。魔人能力と同じことを、心を重ねて生み出す。
寸止め、ずらし打ちといった「本来存在していない打撃」という『偽』を、『真』であるかのように見せるには、この、『受け役』の演技との一致が不可欠。
――完璧な役者一人では成立しない。
吹き飛ばされる観月 藤十郎。
追い打ちをかけるように踏み込む。
――観客。共演者。スタッフ。全員が互いに敬意を払わなければ完成しない。
観月 藤十郎の前蹴りカウンター。
当然その軌道は、脇を掠めるように流れ、命中はしない。
――だから、一人で完結する四波平 明には、舞台の奇跡は起こせない。
しかし、その『偽』を『真』にする体裁きこそ、役者の本懐。
――月張、今おまえに、観客の顔は見えているか。俺たちの顔は見えているか。
四波平 明はびくり、と腰を曲げて蹴りの衝撃を体現する。
表情を歪ませ、重心を後ろへと移し、一度、二度とよろける。
――俺が。俺たちが。お前の舞台の、共犯者だ。共犯者に、してくれよ。
半歩下がったところで、観月 藤十郎が腕をわずかに上げた。
次が、フィニッシュ。見せ場にして、一番危険で、派手な応酬。
――その輝きを受け止めて、束ねて、照り返す。
大きな構えで、観月 藤十郎の右脚がしなる。
全身のバネと回転を活かした、首を狙う上段回し蹴り。
足刀は命中することはない。
コントロールが難しい上段蹴り。
だが、このルームメイトの体幹を、鍛えた足腰を、四波平 月張は知っている。
直視する。
その美しい『偽』を『真』にする、絶好の機を逃さぬため。
――たとえ完璧でなくても。そういう月が、おまえという役者だろう。
足刀の風圧が、頬を撫でる。
そう錯覚するほど近づいた瞬間、首を起点として、体幹の軸を崩した。
6時47分。天凌学園体育館併設のダンス練習室の再演。
いつか、数人の観客の視線にすら縛られてできなかった演技。
同時に床を蹴り、大きく空中で身を捻る。
あまりに強い蹴りの勢いにより、体の末端だけが大きく動いたことを示す動作。
世界が回転する。
ぐるりと回る視界の中で、観月 藤十郎は残心をし、こちらを見下ろしている。
全身が落下する寸前に、腕で床を押さえて衝撃を吸収して――
四波平 月張は、いつか失敗したその大技を、敗北の演技を、完璧に成功させた。
【月】 【転】
【第九幕・中庭定例公演側】
(語り:四波平 月張)
どれくらい、倒れていたのか。
拍手が、舞台を揺らしている。
そのアクションにか。
背景にある文脈にか。
四波平 明という虚飾が剥げてしまった、俺に対してか。
それを成し遂げた、観月 藤十郎に対してか。
何に対してかわからないが、観客は、万雷の拍手を、舞台に捧げていた。
きっと、拍手をしている側もわかっていないのだろう。
昔のことを思い出した。
演劇専修科に入って間もなく、 観月に誘われて、舞台を見に行った。
小劇場で行われた、小さな劇。
大道具と呼べるようなものはなく、小さなブロック数個を用いた、パントマイムにも似た舞台。衣装を着替えることもなく、ただ身一つで演じる、そんな空間。
けれど、いざ幕が開いた瞬間、その小さな四つのブロックは、ある時は海を渡る船となり、ある時は会社に置かれたデスクとなり、あの時は、伝説の宝を隠す箱となった。
薄暗い空間の中で、観客である俺たちと、演者の間でだけ、それは、間違いなく、安っぽい木製ブロック以外の、きらきらした何かだった。
それを、ルームメイトは『舞台の奇跡』だと教えてくれた。
この拍手は、その証だ。
あしざまに言うならば、身内ネタということかもしれない。
普遍的な魅力に欠けると言われるかもしれない。
それでもこの瞬間、この学園の生徒たちにとって、今のアクションは多分、『奇跡』だったのだ。
舞台ならばどこにでもある、現実を変革することのない、だからこそ大切な『奇跡』。
もうひとりの詩人、観月に手を引かれ、俺は立ち上がる。
いつの間にかしりもちをついていた五十鈴も、白露先輩に肩を借りて身を起こした。
『心を合わせて鐘を鳴らせ。――過去の己に悔いなきように』
『心を合わせて鐘を鳴らせ。――あなたの今を拒まぬように』
二人は下手に消え、舞台には、五十鈴と俺と、奇跡の鐘だけが残された。
観客は、俺たちの次の動きを、息を殺して待っている。
『舞台の奇跡』は、現実を変えたりしない。
四波平 明を完成させるため、兄貴が、五十鈴の姉さんを殺したことも。
五十鈴が、姉さんの死を受け入れられず、姉を演じ続けたことも。
その事実が、変わることはない。
けれど、『舞台の奇跡』は、現実をどう認識するかを、変える。
息を吐く。
五十鈴と向き合う。
(なあ、五十鈴)
(なに、月張くん)
(俺は、おまえが死ぬのは嫌なんだが)
(私も、また知り合いが目の前で死ぬのは嫌)
(――陽乃さんは)
(蘇らせるわ。けれどそれは、今日じゃないみたい)
完全に予想外のアクションシーンに毒気を抜かれたせいか、お互い、笑ってしまうほど飾らない言葉だった。
(そっか)
(それじゃあ)
『――ならば、私たちは鐘を鳴らそう』
俺たちは、手を重ねて、鐘紐を握る。
願うのは、いつかの演説に口にしたこと。
『この学園が、元の、みんながバカやって喧嘩したりして、けど、笑ったり泣いたりして、ああ、悪くない学生時代だったなあって、卒業できる、そんな人生の中の一つの舞台に戻ってくれることを、祈るつもりだ』
人気を取るための、方便のつもりだった。
けれど今、当然のように、それを祈ることができた。
四波平 月張。
五十鈴 月乃。
太陽を演じ切れなかった未熟な月たちが鳴らす、月下の鐘。
その音が、舞台と観客席とを包み込み――
【暗】 【転】
「月張、タバスコ」
「自分で取れクソジジイ」
俺は、クソジジイと、ファミレスで向かい合っていた。
目の前には、ドリアにピザにサラダにデキャンタのワイン。
夢だ。だって俺は、一度だって、クソジジイと食事をしたことがない。
「こんなことが、おまえの願う『奇跡』か」
「勘違いすんな。愚痴の一つも吐かないとやってられなかったんだよ」
「ほお、いいぞ。何が言いたかった?」
悪びれもしないその表情は、銀幕の中のヒーローと同じで、だからこそ悪質だった。
「……俺は、テメェを、絶対に許さない」
「それでいい。昭和ならいざ知らず、このご時世なら児童相談所にでも訴えれば即お縄だな。国民的スター、孫を虐待! 時代の変わり目で死んで正解だった。酒に感謝!」
ほんと救えねえなこのクソジジイは!
「ま、日向は少し許してやれ」
「……兄貴には甘いんだな」
「アレは、おまえを妬んでいた。『アクション俳優』としての才能は、アレにはなかったからな。そこを、どこぞの妖狐に化かされて、暴走した。ワシが自分の意思でお前たちを狂わせたのとは、多少事情が違う。情状酌量の余地ありとは思わんか?」
「テメェが言うかクソジジイ」
向かい合うジジイの皿からピザを一切れ奪い取る。
頬張ったそれは、舌が焼けるほど辛くて、まあ、こんなものを毎日酒と流し込んでいれば、ぽっくり逝くってもんだなと、そんなことを思った。
「で、さんざ迷惑かけた孫に、最後に言うことは?」
「そうか。なら――」
【暗】 【転】
気が付けば、俺は、中庭の舞台に立っていた。
今の夢は、鐘の音が響いて消えるまでの、一瞬の出来事だったらしい。
その”真”とも”偽”ともつかぬ体験が、『奇跡』の結果なのか、それとも別の理由によるものなのか。俺にはよくわからなかった。
五十鈴を見ると、両の目に涙を浮かべていた。
こいつも、何か、前に進むために必要な夢を見たのだろう。
そんな根拠のない確信があった。
鐘を鳴らせば、定例公演は終わり。
いつの間にか、幕は引かれていた。
学園中のガラス窓をびりびりと揺らす拍手が響いていた。
後は、カーテンコールだけ。
俺は五十鈴の手を取ると、舞台袖にいた、白露先輩と天龍寺、そして、観月とアクション課程のやつらを呼び寄せた。
そして、その奥でこちらを伺っていたメンバーにも、声をかける。
「酒力! 深林先輩! 至神! 飯綱!」
こことは別に、別の形で、定例公演を演じ切ったカンパニー。
こいつらがここにいるということは、『霊脈』を巡る騒動にも区切りがついたということだろう。
ならば、この舞台の一員。
カーテンコールは、カンパニー全員で。
全員で手を繋ぎ、再び幕が開くのを待つ。
50年に一度。奇跡を呼ぶ舞台。
紆余曲折の結果は、笑ってしまうほど地味なものだけど。
それでもこれが、俺たちらしいとも思うのだ。
演劇は、本物の人の営みではない。
太陽を照り返す月、さらにそれを模して紙で作ったような、偽物の偽物。
でも、人はそこに『奇跡』を見出す。
演者と、観客と、関係者と、そんな共犯関係が、本物を凌駕することもある。
「――『紙の月よ、天を凌げ』 か」
夢の中で、クソジジイの口にした言葉を繰り返す。
それを俺が体現できるかは、また、こことは違う、別の舞台の物語で語るべきだろう。
【スタッフロール】
2023年天凌祭開催式・定例演目
「満天の空と約束の鐘」(中庭公演)
キャスト
詩人:四波平 月張
音忘れの君:五十鈴 陽乃
はじまりの音楽神:天龍寺 あすか
探究の苦悩者/音忘れの君の残響:白露 アイ
詩人の残響:観月 藤十郎
詩人の懊悩:演劇専修科アクション課程一年有志
企画構成:天龍寺 あすか
原作:「満天の空と約束の鐘」(那須 ほがらか)
脚本:四波平 月張、天龍寺あすか
演出:天龍寺 あすか、観月 藤十郎、四季巡 絶佳
音楽総括:羽曳野 琴音
美術総括:求道 匠
2023年天凌祭開催式・定例演目
「満天の空と約束の鐘」(校門公演/対妖狐防衛部隊)
キャスト
詩人:酒力 どらいぶ
音忘れの君:飯綱 千狐
はじまりの音楽神:至神 かれん
探究の苦悩者:深林 さぐり
企画構成:至神 かれん
原作:「満天の空と約束の鐘」(那須 ほがらか)
脚本:至神 かれん、酒力 どらいぶ
演出:八重桜 百貨、至神 かれん、酒力 どらいぶ
音楽総括:長門 艶奏
美術総括:鐘捲 成貴、八重桜 百貨
FIN