「あのね、毎朝、ふたりで約束をしたいの」
わたし達がまだ天凌学園に編入する前。小学生の頃の記憶だ。
四季巡の家と、それを支える四つの家は、それぞれ近隣に位置している。
当時のわたしは毎朝、学校へ向かう前に四季巡のお屋敷までお嬢様を迎えに行くのを日課としていた。
お嬢様のご両親や使用人の方々が皆とてもよくしてくれて、朝食を頂くことも珍しくなかった。子供心にとても居心地が良い空間だったことを覚えている。
その日の朝も、お嬢様の部屋にお邪魔して、寝相でついたであろう手強いくせっ毛を後ろから撫でつけていると、ふと提案が投げかけられた。
「約束、ですか?」
「夜の間にね、考えてきた言葉があるの。アイにも一緒に言ってほしくて」
ノートの隅に何度も書き直した跡のある、誓いの言葉を見せてくる。
内容はほとんど愛の告白だ。気恥ずかしい字面に頬が少し熱くなった。
「だめ……?」
向き直ったお嬢様がこちらに視線を注いでくる。得意とする上目遣いだ。
とてもいじらしく、可愛らしい。この瞳だけは裏切りたくない、裏切れないと思えてしまう。
「いいですよ、お嬢様。約束しましょう」
「……! ありがとう!」
朝露で輝く向日葵みたいな笑顔で、お嬢様が喜色を溢れさせる。
わたしは、この笑顔が大好きだ。
「じゃあ、言うね。……アイ、今日も私を愛して。私を支えて、守って、あなたの全てを私のために捧げてちょうだい」
「……はい、お嬢様。わたしは貴方を支え、守り、わたしの全てを貴方のために捧げます」
「……お嬢様、その……あ、愛しています……」
「うん、私も愛してるよ、アイ!」
以来、わたし達がふたりで迎える朝には、必ずこの約束があった。
互いに、愛の言葉を重ね続けてきた。
・ ・ ・
お嬢様が家出をしてしまったのは、今朝のことである。
先日、友人の深林 さぐりさんと一緒に一週間ほど学園全体をアマゾン送りにした、アマゾナイト・デーモンコア事件を起こした主犯格として一躍有名になってしまったわたし、白露 アイ。
これだけの大事になったのでは支持集めにも悪影響が出るかと危惧していたのだが、聞けば同時にこの事件を収め、元の場所に戻ってくることに成功した功労者ということにもなっていたようだ。
道行く生徒や教師の人達から感謝されるようになり妙な居心地の悪さは感じるものの、結果として学園内の支持者が確実に増えていることが実感できていた。
ただし、懸案事項もある。
あの事件以来、アマゾンの中で見たプロジェクターの光景が頭から離れてくれない。
お嬢様が幼少の時分に『両親とDNA鑑定を受けていた』という事実を示す映像。
これが事実なら、わたしの能力により度々思い出される、生まれたばかりの記憶……白露家の両親が、わたしとお嬢様を互いの家の子どもとして取り替えたという記憶について、お嬢様も四季巡の両親も、その事実を知っていたということになる。
知っていたのなら、例えば白露家の両親には、その行為についての沙汰が下ったりしたのだろうか。わたしが知らないだけで、何かしらの顛末があったのかもしれない。
本当のことが知りたい。ひとりで悩むばかりではいけない。
そう決心し、朝の支度が済んだお嬢様に件の話題を切り出すことにした。
「お嬢様、つかぬことを伺うのですが」
「どうしたの?」
「ええと……お嬢様が幼い頃の話なので、覚えてらっしゃったらでいいんですが……」
「?」
「DNA鑑定、の話って、伺ってもよろしいですか……?」
「……」
「……あ、あれ、お嬢様」
「…………知っ、てるの?」
ぞくり、とした。
普段からは想像もできないほどの怯えたような声色に驚き、慌ててお嬢様を見る。
お嬢様はひどく狼狽した様子で、顔を真っ青にしながらこちらを見ていた。
途端に反省する。やはり突然投げかけるものではなかったかもしれない。
だがそうだとしても、この動揺ぶりはいささか過剰に感じてしまう。
「お嬢様……?」
「……っ!」
小さく何かを呟いたお嬢様は、そのまま鞄も持たずに逃げるように部屋を飛び出してしまった。疑問への答えが得られないまま、寮の部屋にわたしだけが残される。
「……ええ……?」
わたしはしばらくの間、唖然としながら放たれたままのドアを見ていた。
・ ・ ・
「ありがとうございます! 向かってみたいと思います」
「にしても、白露さんたちが喧嘩とか珍しいね?」
「ああいえ、喧嘩とかではなくて……ともあれ、失礼しますね」
「ん! またね~」
通学中の知り合いから聞き取った情報で、お嬢様の行き先はほぼ特定できた。
運動場の脇に建っている時計塔。
古い造りの建物ながら立派な高さがあり、内部の螺旋階段を上がって出られるテラスからは運動場のほか、学園の各施設が見渡せる。
一応、立ち入り禁止にはなっているのだが、生徒の間で錠の解除番号は当然のように共有されていた。
嫌なことがあった時などに、お嬢様を何度かあそこで見つけたことがある。向かった方角と目撃情報を合わせれば、ほぼ間違いないと思われた。
並木沿いの通路を越えれば見えてくる頃だ。もう少し走ろう。
ふと、前方に人影が見えた。
「東西、東西」
よく通る声で東西声が発せられる。
歌舞伎や伝統芸能の幕開きに使われる掛け声だ。
大声を張り上げた訳でもないのに、はっきりと澄んだ音を響かせたその人は、悪戯っぽく微笑んでこちらを見ていた。
「古院……先輩?」
演劇専修科三年の古院 櫻花先輩だ。
学内外での舞台において主役経験多数。
演専の学生で彼女を知らない人は居ないほどの実力派であり、当然のように此度の主役争いにも期待がかかっていた人物である。
が、客演で招かれた外部の劇団の公演と時期が重なってしまったことで、今回は惜しまれながらも辞退を表明していたはずだ。
天凌の学生の中には、在学中からプロと変わらぬ活動を行う者もいる。現在海外で公演を行っている同級生の不破 煉さんなどもその例だろう。
在学中に外部から出演依頼が来ていること自体が、その実力の裏付けに他ならない。
その古院先輩が、何故か運動場への道を塞ぐよう、仁王立ちしていた。
「おはようございます先輩、その、何かご用で……?」
「……可愛い後輩に頼まれちゃったの。あなたが来たら足止めして欲しい、ってね」
間違いなくお嬢様のことだ。
お嬢様は学内でなかなか顔が広い。先輩の所属する文芸部にも顔を出しており、そこで知り合いになっていたはずだ。
しかし、足止めとはまた直接的な表現である。
涼やかな顔で話す先輩も、経緯というよりは、そのシチュエーションを楽しんでいるように見えた。
「わ、わたしも後輩なんですが……」
「あはは、まぁ、そう言わないで。白露さんには、個人的な興味もあったし」
「興味……?」
古院先輩の朗らかで人の良さそうな表情に、静かに力が入った。
何かしたわけでもないのに、その微妙な表情の付け方、立ち方だけで周囲に緊張感が生まれる。
「支持、うまく集まってるみたいだよね。主役が張れるほど仕上がっているか、ちょっとだけ見せて欲しいな」
「ひょえっ……」
この先輩、抜き打ちのエチュードをするつもりだ。
古院先輩の放つ気配に、別のものが混じる。他者を観察し、評定をするかのような眼。
彼女に付きっきりで指導に当たっている「師匠」と呼ばれる方がいたのを、何度か見かけて『覚えて』いる。今の彼女の纏う雰囲気は、その人のものに間違いない。
おそらく、自分が師事する人物を演じることで、わたしを試そうとしているのだろう。
「受け売りだけど、『Show must go on』だよ。そのための口上左様、東西、東西」
RPGで言えば、逃げられない、と表示が出たところだろうか。
・ ・ ・
時計塔。
内部の螺旋階段は、中央に大きな振り子が通っている吹き抜けになった空間の周りを何周もしながら階上に向かっている。
私、四季巡 絶佳は、その階段の途中で息を切らしてへたりこんでいた。
逃げてきてしまった。
こんなに走ったのはいつぶりだろう。
春に授業でシャトルランをやった時も、ここまでは疲弊しなかったんじゃないだろうか。
アイのことだから、絶対にここを見つけて追い付いてくる。
偶然に出会えた古院先輩にお願いしてしまった足止めも、実際はただの時間稼ぎだ。おそらく、先輩が満足した時点で開放されると思う。
息を整えたくて、階段にそのまま座り込む。
行儀が悪いと思うが、幸い建物内には人も居ない。
DNA鑑定。
アイからその言葉が出た瞬間、目の前が真っ暗になってしまったように感じた。
その記憶は、私にとってはかなり気が重く、苦いものだ。
もう5年も経つのに、当時のことは詳細に思い出せてしまう。
両親から何気なく誘われ総合病院に行き何気なく検査を受けた私は、お医者様の説明を聞いてもその意味することがよく分からなかった。
曰く、私は両親とは血が繋がっていないらしい。
驚くことに、両親はそれを意外には思ってはおらず。彼らは穏やかに、散歩中に見つけた花の種類でも説明するかのように、私に教えてくれた。
四季巡の家は、家に生まれる跡取りを守っていくために、これに仕える四つの家、啓蟄、芒種、白露、大雪の家と代々取り決めが交わされてきている。
四季巡が子を成すタイミングに四つの家は足並みを揃え、最も近い日に生まれてきた子を跡取りの従者とする、という古い伝統だ。
その昔で言えば影武者、スペアの意味合いもあったのだろう。
お産の日取りを揃えるなど、当事者のことを考えれば狂った決まりに他ならないのだが、とにかく私達はその取り決めの通り、同じ日に、同じ病院で生まれてきた。
そして、生まれた当日に事件は起こる。
白露の家の両親が、生まれた娘である私と四季巡の家に生まれたアイとを取り替えた、というのだ。
「許されないこと、と思うかもしれない。けれどね、四季巡の家の歴史の中では、こういった『取り替え』は度々起こってきたことでもあるんだ」
父親はそう言って、ある意味では四季巡家というのは、大きな五つの家で作られた共同体になっている、といったことを説明する。
それが当たり前であることとして。穏やかな口調で教えてくれる。
「四季巡の跡取りが早くに亡くなってしまった際には、その従者がそのまま跡取りとして家に迎えられたこともある。私たちにとって優先されてきたのは、それぞれの家名でなく、繋ぐこと、続いていくことだったのよ」
「白露の家が取り替えに及んだのは今回が初めてのことだけれど、あそことだって家族同士で婚姻のやりとりも続いている、決して遠い血というわけではないんだ」
「驚くかもしれないけれど、絶佳も、もちろんアイちゃんも、うちの大切な娘なのよ」
四季巡は、文字通り『四』つの家の間に血を『巡』らせながら続いていく。
まだ小学生の娘に聞かせるには難しい考え方だ、と感じる。
だが、事実に対し穏やかに結果を受け入れ、自分に愛情を注いでくれるこの両親には嫌な思いは抱かなかった。素直に嬉しいと感じることが出来た。
だが、アイはどうなる?
本来立つべきだった「四季巡の後継者」という場所からはじき出され、従者として育つはずだった私を主人として見てきた、何も知らない彼女は。
この事実を知ってしまった時、どう思うのだろう。
毎朝、家に迎えに来てくれるアイ。
私の話を嬉しそうに聞いてくれるアイ。
互いの一番の理解者であると信じてきた、可愛い私の……アイ。
裏切られた、と思うだろうか。
深く傷ついてしまうだろうか。
『私を……恨んで、しまうんじゃ……ないかな』
不安からぽつりと口をついて出た言葉に、背筋を刺されたような悪寒が走った。
絶対にそうなる、確実に起こり得るであろう確信があった。
こんなに何かを怖いと思ったことはなかった。
アイに真実を知られてしまうのが。
居場所を奪った存在であると、気付かれてしまうのが。
一番大好きな、己の半身のように思っていた人を失ってしまうのが。怖い。
その日の晩、私は震えながら眠ることが出来なかった。
「──お嬢様」
階下から声がかかり、ハッとして顔を起こす。
時計塔の螺旋階段に、あの頃よりずっと背が伸びた、従者の姿があった。
・ ・ ・
「待ってください!」
慌てて階段を駆け上り始める絶佳お嬢様に叫びかける。
聞き入れては貰えず、とんとんと足音が上に向かっていく。
こちらも手すりを掴み追いかけようとするが、
『気を付けて! 階段や手すりがあちこち古くなっているから、慎重に登らないと危ないかもしれないわ』
そこにお嬢様の声が降ってきた。
すると、急に目の前の階段が心許なく感じられて、進もうとする足が強張ってしまった。
古いロープで張られた吊り橋のようで、いつ崩れてもおかしくない気がしてしまう。
上階を見やれば、こちらに言った言葉とは裏腹に全力で駆け上がるお嬢様の姿が見えた。
「ちょっ……お嬢様! 危な、危ないですよ……!」
早々とテラスに消えたお嬢様を、螺旋階段を一歩ずつ確かめながら追い始める。
そんなに来て欲しくないのだろうか。
わたしが向かうことが重荷になってしまうのだろうか。
それでも、このままにしておける訳が無かった。
今朝、わたしは本当のことが知りたい、という自分の想いだけで話題を振ってしまった。
配慮が足りなかったと思う。少し想像すれば分かったことなのに。
お嬢様は、わたし達が取り替え子であるという事実を伏せたまま、わたしの隣に居たのだ。小学生の時からとすれば5年以上の期間である。
意図して伏せられていたのか、言い出せなかったのかは分からない。両親からだって、どんな説明があったかは推し測ることはできない。
けれど、それには想像を絶する辛さがあったはずだ。逃げ出した時のあの表情を見るに、お嬢様はずっとこの出来事を恐れていたのだ。
わたしがその事実に気付かないままであって欲しいと。怯えながら祈っていたのではないだろうか。
では、わたしがやるべきことは……決まっている。
・ ・ ・
「引き分け……と言うには、お前との比較ではまだ差があったな」
「師匠」
エチュードを終え、白露を見送った私の元に、妙齢の女性が歩み寄ってくる。
水火金 木月師匠。私の表現者としての師にあたる人物だ。
「人の演技を評価する立場に回るというのは、同時に自分の演技を見直すことに繋がる。あの子はどうだった? 先輩」
「うう、茶化さないで下さいよ……」
先程まで全身に帯びていた熱を冷ましながら、私は後輩の演技について思い返す。
芝居の基本となる技能については問題なし。
だが、どこかちぐはぐな印象を受ける演技だった。
堂に入った良い動作をするかと思えば、ふと迷ったような瞬間が挟まることがある。
完成度の高低を行ったり来たりする印象の演技は、観客の不安を煽るかもしれない。
「多分、参考にしている手本があって、それをなぞっているんだと……思います」
「ふむ」
「自信がある上手な演技の間に、突然自信のない演技が挟まるんです……恐らくは、極めて精度の高い自己反復か……模倣か……」
「いい眼が養えているな」
意外にも素直なお褒めの言葉が降って来たことに目をまるくしていると、師匠は私の頭に手を乗せてうりうりと撫でてくる。どうやら師匠の考えと同じ回答を用意できたようだった。
「良い面を見よう。光るところはあったか?」
「ええ、それは」
それについては、即答できる。
私の『嘘発見器』が、静寂を貫いた一点。
「大事な人を想う演技、愛についての演技をする時にだけ、彼女の心には一切の”嘘”が無くなりました。あの姿勢、あのモチベーションが維持出来れば、彼女の演技は」
きっと。あの舞台にも……満天の空にも届き得る。
それは、自分がこの道を志した契機となった人が魅せた演技に近い輝きを感じさせた。
後輩からこんな刺激を受けることもある。素直に嬉しいと思える体験だった。
「……お前も、進化を止めてはいられないな?」
嬉しそうに師匠が笑いかけてくる。
私は、力強く頷いてみせた。
・ ・ ・
「お嬢様」
時計塔のテラスでひとり待つ私に、階段を登り終えたアイが声をかける。
当然ここは行き止まりなので、こうなることは分かっていた。
気持ちの整理が付かなかっただけ。
私は思い切り息を吸い込んで、目の前の従者に応えた。
「……いつ、知ったの?」
「……DNA鑑定のことは、つい数日前ですが、……取り替えの事実については……中等部に入った頃から、です」
意外な返答であった。
であれば、この件に関わった全員が数年前から真実を知っていたことになる。
なおさら、自分のやってきたことが愚かで、滑稽に感じられた。
きっと何を言っても、アイは許してくれるのだろう。
けれど、今しかない。
私の本当の罪を告白できるとしたら、今しかないのだ。
「……驚いた。じゃあ、本当にただの道化だったのね」
「いいえ!お嬢様、いいんです、わたしは」
「アイ……。私の能力、ちゃんとは知らないよね」
「? はい……」
互いの能力については、完全には打ち明けないことにしていた。
アイを付き人として、天凌に編入する際に決めたルールであった。
当時はまだアイに能力発現の兆候が無かったこともあり、私は自身の秘密を守ったのだ。
だが、それももう終わり。
私は、知って貰わなければならない。
私の能力は、あの検査の日の夜に、眠れず震えたあの夜に発現した。
「私の能力は……言葉を用いた意識の誘導」
能力名、『愛の言霊』。
能力の使用を意識しながら発言を行う際に発動する。
私の発した言葉は、それを聞いた相手にとって「正しいことのように感じてしまう」。
極端な嘘と分かるものや、相手が非常識と感じるものについては信じさせることが出来ないが、曖昧な事象や、選択肢が与えられていることに対しては、さも正解を指しているように思わせることが出来る。
そして、この能力は言葉を重ねるほど強い効果が認められる。
「人の気持ちを操る力なの。……アイにも覚えはあると思う」
例えば、主役争いにアイを推薦する際、友達にその気になって貰うために。
例えば、攫われたアイの元に駆けつける時、黒服の男に道を開けて貰うために。
例えば、密林に迷い込んだ学園の生徒達の心理状態を落ち着かせるために。
例えば。
「……例えば、毎朝の、ふたりの約束の言葉」
アイがハッとして眉を引き上げる。
全部。全部言うんだ。
「私は……アイが全部を知ってしまった時に……あなたに恨まれるのが怖かった」
「怖くて、怖くて……! 一番大事なあなたを失いたくなくて! それで思い付いたの! 思い付いてしまった!」
「この能力で毎朝、あなたに呪いをかけようって!!」
「ずっと一緒にいられるように! 私のことを愛してくれるようにって!! そうして思い付いた言葉なの!」
「そうやっていれば、きっと、あなたは私を恨まない……私を愛し続けてくれる……」
毎日毎日、愛してほしいと言い続けた。
愛していると言い続けた。
じわりじわりと身体を蝕む毒のように。あなたを騙し続けられるように。
「アイが本当のことに気付いたら……全部言おうと思っていたの……」
「お嬢様……」
「あなたが私へ向けてくれる愛は……私が全部、洗脳して塗り固めたものだから、だから……」
「私は、あなたの隣に居られない」
時計塔の大時計が、始業を知らせる音を鳴らす。
全部言った。
ずっと怖かったことを、ずっと心の奥で悔いていたことを、本当は主人であるべきだった人に一方的にまくし立てた。
足が震えて、身体に力が入らない。
どんな言葉が返ってくるのかを想像するだけで涙が溢れてくる。
ばきん。
手すりを握る手に重心を預けた瞬間に、手すりがそこだけ外れた。
私の身体と折れた手すりだけが、支えを失う。
眼下には、運動場。地面。
「……へ」
階段や手すりがあちこち古くなってるから、危険かもしれない、と。
そうアイに言っていたのは、確かに自分だった。
・ ・ ・
「お嬢様!!」
突然テラスから手すりごと落下しそうになったお嬢様の元に全力で走り込む。
間一髪、腕を掴むことに成功した。
手すりだけが数秒の後、階下で鈍い音を響かせた。
「……アイ……」
お嬢様は、信じられないといった様子でこちらを見つめている。
「握り返して下さい、引っ張り上げます」
「……でも、私」
「お願いです、から」
「…………うん」
己の魔人としての身体能力に感謝する。
学園敷地内ゆえ、何かあっても保健室行きとは思うが、嫌なものは嫌だ。
テラスに引き上げたお嬢様と顔を見合わせ、どちらともなくへたり込む。
お嬢様から先程までの有無を言わさぬ雰囲気は消えている。
わたしから言葉を伝えるなら、ここだろう。
怖かった、とお嬢様は言っていた。
わたしに全てを伝えるのも、本当に怖かっただろう。
だから。
「わたし、ある程度は知っていました、お嬢様の能力」
「!」
「お互い長いんです。お嬢様だって、わたしの能力の大筋は理解されていますよね?」
「う……ん、まあ……」
「だから、その能力が人の思考を洗脳するほどの力がないことも、知ってます」
「あ……」
きっと、お嬢様は根底に罪悪感があったから。
わたしに対して、恨まれてしまうと強く信じてしまっていたから、わたしの思考を操るしかない、という考えに至ってしまったのだと思う。
もしかしたら、「恨まれてしまう」という思い込みこそ、自身の能力による自分への暗示になってしまっていたのかもしれない。
「常識を覆すことは、出来ない……そうですよね」
「……うん」
「なら、話は簡単です」
「わたしは、毎日の約束を始める前から、ずっと。ずっとお嬢様を、愛していますから」
「……!!」
お嬢様の目から、ぼろりと大きな涙が零れ落ちた。
この常識は、変わらない。
自分の能力で取り替えの事実を知っても。
お嬢様や四季巡の両親が、その事実を知っていたとしても。
わたしは、お嬢様の唯一人の従者で、『お付きの人』で。
この人の、一番のパートナーなのだから。
「……っ……あ……アイ……っ」
「はい、お嬢様」
「……愛してる……っ、愛し、てる……!」
「わたしも。愛しています。絶佳お嬢様」
お嬢様が、大声を上げて泣き始める。
もう授業時間だ。幸い、運動場には人気もない。
きっと、この声を聞く人はわたし以外にはいないだろう。
結局、互いに事実は知っていたけれど、その共有が出来ていなかっただけ。
お互いが知るはずがないと、言葉に出すのを躊躇っていただけだった。
付き合わせてみれば、そんなもの。
起こってしまった事実は互いのせいでも何でもなく、それに異を唱えるものもいなかった。わたし達は現在の境遇に不満も、ましてや恨みもない。
ただ、こうなると実際に取り替えを実行した上に、それがバレていないと思っている白露の両親が気の毒ではあるものの、それも気にしても仕方ないことであった。
「実は、鐘を鳴らした時に願う奇跡について……考えていたことがあったんです」
「あった……? 何を願うつもりだったの?」
「わたしを含め、わたし達の取り替えの事実を知る全ての人から、その記憶を消して貰う……今の関係こそが『自然な状態』である、ということにしたかったんです」
「……それは、また」
「叶うか分からない奇跡に願う自分のことなんて、これくらいしか思い付かなくて」
「アイも、今の関係を強く望んでくれていたんだ……」
互いに笑い合う。
色々と考えを巡らせて、勝手に想像して。
仲が良いつもりでいても、こんなことにも気付けないんだ。
寝転んで見上げた空が、いつもよりもずっと青く、色付いて見えた。
宝物を見つけた気分だった。
思いがけなく……
あ。
たまたま思い浮かんだ言葉に、先ほどの古院先輩の東西声が思い出される。
東西、東西。歌舞伎や伝統芸能の幕開きに使われる掛け声。
『記憶の地平線』が紐づけたフレーズは、存外この状況に合っている気がして。
「思いがけなく 手に入る百両!」
わたしは、青空に向かって大声で諳んじた。
隣で気が付いたお嬢様が、くすりと笑い、同じく大声で合いの手を入れる。
「御厄払いましょう! 厄落とし!」
泣き続けて少し枯れた声が、今は無性に愛おしくって。
ふたりは交互に、楽しそうに。空に向かって声を放った。
「ふふっ……ほんに今夜は 節分か!」
「西の海より 川の中!」
「落ちた夜鷹は 厄落とし!」
「豆だくさんに 一文の!」
「銭と違って 金包み!」
「「こいつぁ春から 縁起がいいわえ!!」」
笑いあって、確かめあって。
改めて、わたし達は目指す。
満天の空に、ふたりで約束の鐘を鳴らすために。