In principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.
◆
日本国内の他の多くの学校と異なり、天凌学園では二学期制を導入している。
そうなった理由については、確か学園史を解説した冊子か何かに書いてあったとは思うが、正直なところあまり覚えていない。実際に学生生活を送る私達にとっては、そのような題目より気にしなければならない事が幾つもあるからだ。
例えば、『二学期制では期末テストは何月に行われるか』、とか。
ちなみに、正解は(天凌学園においては)九月と三月である。
これは、私が高校一年生になってから最初の期末テストが終わった頃。
つまり、九月の中頃の話。
私が、あの神様に再会した時の、お話だ。
◆
鐘の音が校内に響き渡る。
もちろん、奇跡を告げる伝説の鐘の音ではない。終結を告げる解放の鐘の音であった。
より具体的に言うなら、期末テスト最終日、最後の科目の試験時間終了を告げる鐘の音である。この天凌学園では普段の定時の時報にも鐘の音が採用されているのだ。そこそこ威圧感があり、校外からの来客には驚かれることも多いのだとか。
閑話休題。
鐘の音を耳にした私は、手にしていた鉛筆を机に置き、椅子に座ったまま軽く伸びをした。
試験の手ごたえはまずまず、と言ったところ。私としてはやや苦戦したが、許容範囲だろう。
安堵の気持ちがないと言えばウソになる、が。
私は、緩みかけた口元を引き締め、内心でもまた、気持ちを引き締める。
私には、“五十鈴陽乃”には、こんな所で足踏みしている時間はない。
仮に、この期末試験でうっかり失敗し、追試験や補習を受ける羽目になってしまったとすれば、当然舞台に対する準備に割く事の出来る時間は目減りする。
準備を万全にできなければ、私が奇跡を手にする可能性もまた、目減りしていってしまう。
そう考えれば、私にこれからやってくる全ての事に対して、手抜かりは一切許されなかった。
期末試験は、私が乗り越えるべき無数の関門の一つに過ぎないのだ。
私は幾度目かになる決意をして、回ってきた先生に解答用紙を手渡した。
「五十鈴さん、顔怖いよ? センセーびびってんじゃん」
「……あ。ご、ごめんなさい」
「いや、アタシに謝るこっちゃないけどさー」
けらけらと笑いながら私に話しかけてきたのは、私の前の席に座っている五十嵐さんだ。
席が近いことと苗字が似ていること、おまけに彼女の気さくな人柄も相まって、私とは友人と言っても過言ではないぐらい交友がある。下の名前があまり好きではないのか、自分の事はもっぱら苗字で呼ばせていた。先月の休み期間に海に行ったそうで、日焼けした顔に笑顔が眩しい。
「……やっぱ、あれ? 文化祭の。あ、言いたくないならいーけど」
「お気遣いありがとう。……ええ、文化祭のあれよ」
「そか。アタシはもち、五十鈴さんを応援してんだけど」
「だけど?」
どうやら、単に表情が硬い私を気遣っただけではないようだ。五十嵐さんはらしくもなく、声を潜めるようにして話しかけてきた。
「なんか、あれの絡みで妙な話を小耳に挟んでね。五十鈴さんに伝えといた方がいいと思って」
「妙な話……ありがとう、内容は?」
「んーと、普通科三年のサキュバス先輩いるじゃん。文化祭のあれ狙ってたって噂の」
「ええ、聞いてるわ。過去形って事は、諦めたの?」
「半分正解」
「……半分?」
「サキュバス先輩は、文化祭の奇跡を諦めた。それと同時に」
「神様の支持に回ったらしい。今は、その神様のために人集めてるって話だ」
◆
神様、こと、『神様ちゃん』至神かれんについての情報は、呆れるほど簡単に収集できた。
普通科高校一年。『神様ちゃん』は自称にして一人称。普通科でも指折りの奇人。
『神様ちゃんを囲む会』主宰。会の活動内容は、放課後に集まりお茶やお菓子を嗜むこと。
そして、至神かれんが奇跡を目指すための支援全般。
ここまでは、少し考えれば予想できた事ではある。
奇跡を手にするための条件、文化祭前夜祭の舞台の主演を決める方法は、投票だ。それも、舞台の関係者によってのみではない、全校生徒やそれ以上の人々を巻き込んだ、非常に大規模な投票である。いっそのこと『選挙』と呼んでしまっても差し支えないかもしれない。
そして、投票行動の目的は制限されていない。単に舞台に秀でた者を選ぶ、という事にならないのは自明と言ってもいいだろう。各々が各々の目的を持って票を投じるのは当然だ。
で、あるならば。
本気で奇跡を狙う者が票を束ねるための組織を用意するのもまた、当然な成り行きだろう。
『神様ちゃんを囲む会』は、恐らくそのような目的を持って設立されたサークルだ。
少なくとも、現在の活動目的の大半がそれである、というのは公然の秘密であった。
私が噂として聞いただけでも、かなりの数の生徒が『囲む会』による勧誘や説得工作を受けているらしいということである。
演劇畑の人間としては少々腹立たしい話だ。噂の『ミス・パーフェクト』など、これを聞いたら怒り心頭に発するのではないだろうか。とはいえ、ここまでなら珍しい話でもない。
不穏なのはここからだ。
『囲む会』による説得によって、幾人かの奇跡志望者が立候補を諦め、そればかりか、『神様ちゃん』への支援に回ったというのである。
例えば、五十嵐さんの話にもあった、普通科高校三年、夢研究会のサキュバス先輩こと、夢魔原千寿先輩。彼女は、理由は不明瞭ながら、一時期奇跡を求める事を公言していたという。夢を見せる魔人能力の対価として自らへの支持を集めていたそうだ。
だが、数か月ほど前に「やっぱやめたっス」と宣言して立候補を撤回。夢を見せて支持を集める行動自体は続けているものの、その支持の対象は自身ではなく、『神様ちゃん』へと差し変わっていたというのだ。
彼女の友人である小柄先輩曰く、立候補を撤回するしばらく前から、『囲む会』のメンバーの生徒が夢魔原先輩と会話するのをよく見るようになっていたとか。
彼女以外にも、幾人かの奇跡を求めていた者たちが、あっけなくそれを諦め、『神様ちゃん』への支持に鞍替えしているらしい。
「……不気味な話だなぁ」
集めた話や五十嵐さんから聞いた話を纏めたメモを見下ろした私は、小さく溜息を吐いた。
何故、不気味なのか。例えば、『囲む会』が金銭などを用いて立候補者を買収していた、というなら、是非はともかく納得は出来る話である。だが、そのような噂や痕跡は見つける事が出来なかった。
『囲む会』メンバーの、あるいは『神様ちゃん』の魔人能力による物だろうか?
あり得ない仮定ではないが、これもまた、聞いている限りでははっきりしない。
それほど強力な能力者なら、『神様ちゃん』を立てるのではなく自ら立候補するのでは? とも思うし、『神様ちゃん』の魔人能力はそういった物ではないはずだ。
では、どのように?
「……ああ、もう。やめやめ」
思考の袋小路に入っていることを自覚した私は、頭を振って苦笑い。
こういう時はどうしよう? “五十鈴陽乃”の答えは決まっている。
「気になるんなら、直接会いに行けばいいよね」
「うん、分かってた」
自身の両頬を軽く、数度叩く。
小さく気合を入れた私は、彼女の元に赴くことを決めた。
◆
部室棟。
内部の空間が魔人能力によって拡張されているこの建物は、有象無象の天凌学園部活サークル同好会を一手に引き受ける魔窟である。一階が体育会系、二階以上が文化系、という不文律を除けば、まさにルール無用と言った趣であらゆる組織が門戸を開いたり閉じたりしている。
『神様ちゃんを囲む会』の部室は、その無秩序の中では比較的秩序だった一角、第三新アニメ研究会と本家漫画研究部に左右を挟まれた場所に配置されていた。幸いというべきか、私以外に廊下を行きかう者は見当たらない。
期末試験が終わってから1週間が経とうとしていた日の放課後である。演劇専修科の新規の公演は暫く無いため、放課後の練習は自由参加となっている。私もこの時期の練習は毎日参加はせず、今日のように別の用事に費やす事も少なくはなかった。
だが、恐らくこの扉の向こうに待つのは、演劇の練習に勝るとも劣らない、困難で重要な問題だろう。
扉の向こうから人の気配はしない。留守だろうか?
「……っ、はぁ」
私は覚悟を決めると、扉を三度、ノックした。
「はーい、開いてますよーっ」
聞き覚えのある、よく通る声。
心臓の音が少しだけ加速する。
深呼吸。吐いて、吸って。
「……失礼します」
内開きのドアをゆっくりと押し開き、部室の中に入っていく。
部室の中には、テーブルが一つに椅子が幾つか。そして、一番奥に少女が一人だけ。
黒いリボンでまとめたサイドテール気味の髪は、脱色ではない自然な茶色。
髪とよく似た色の瞳は、驚いたようにまん丸に見開かれ。
赤い色のネクタイは、私と同じ高校一年の印で、そこだけが記憶と違っている。
「ひ……陽乃、様」
至神かれんは、あの日とほとんど変わらぬ姿のまま、目を丸くして立ち上がると。
「うん。お久しぶり、『神様ちゃん』。元気そうで――」
「陽乃様ぁ~~~~~~っ!!☆ミ」
流れ星のように、私に抱き着いてきた。
◆
「ごめんなさい! ごめんなさい陽乃様! 神様ちゃんお久しぶりの再会にちょっと興奮しちゃって!」
「……うん、まあ、元気そうで何よりだよ」
「心なしか目が冷たいんですけどぉっ!? ちょっと押し倒す形になっちゃったのはほんと申し訳ないですが!」
「まあ、何も思ってないと言うと嘘になるけど」
「デスヨネー」
「君が元気そうで何より、っていうのは、本心からの言葉だよ」
「……も、もう陽乃様! そういう所ですよ!」
「? ……まあ、それはいいや。神様ちゃん、私がここに来た理由、分かるかな」
「んー……そうやってぼかすって事は、神様ちゃんとくんずほぐれつ水入らずの時間が欲しかったって訳じゃないですよね」
「くんずほぐれつ? ええと……単刀直入に聞こうか。奇跡が欲しいって、ほんとかい?」
「はい! ちょっとやんごとない事情により神様ちゃん、奇跡が必要になっちゃいまして!」
「そうか。……それなら、神様ちゃんは私のライバルだね」
「え。……あ。……その、妹さん、お悔やみ申し上げます」
「ありがとう。……私は、彼女に何もしてあげられなかったから……なんとか、取り戻したいんだ」
「…………」
「……ダメ元で聞くけど、諦めてくれたりはしないかい?」
「っ……ダメです。妹さんは本当に残念ですけど……神様ちゃんにも、奇跡が必要なんです」
「……。理由を聞いても?」
「…………」
「…………」
「……sint vera vel ficta」
「ぇ」
「taceantur sub rosa dicta.……誰にも知られたく、ないですから」
「…………」
「今夜9時、あの場所で。……お待ちしてます、陽乃様」
◆
――それは、去年の十月の中頃、私達が中学三年だった時の話だ。
この学園には各所に隠れ家のように温室が配置され、それぞれ別の花が植えられている。
何故そんな配置になっているのかはよく知らないが、確かな事があるとすれば、それらは概して人気のない場所に作られており、わざわざ温室に行こうと思わない限り、めったに人が通らないという事だ。
だから、その薔薇の温室の傍らを陽乃が通ったのは本当に偶然だった。普段通らない場所を探検してみよう!などという茶目っ気を陽乃が出さなければ、全身にアザを作ってうずくまる彼女に気が付くことも無かっただろう。
陽乃は激怒した。政治とか校則とかは関係なく、誰かを痛めつける事に正統性があるわけはないという、彼女自身の倫理観の発露である。うずくまる彼女の傍らには数人の女子生徒がいたが、陽乃のあまりの怒り方に恐れをなし、逃げていった――今思えばなんて幸運だろう。戦闘型の魔人能力者がいたらどうするつもりだったのだか。
陽乃はよし、と満足した後、怒りが収まって状況を思い出したのか、慌ててうずくまる少女へと駆け寄った。
「ねえ、大丈夫!? 立てる? 保健室、連れて行ってあげようか?」
陽乃の問いかけに、少女はしばらく唖然としたかと思うと、可笑しそうにくすくすと笑い声をあげた。
「大丈夫ですよ。幸い、即座に命に別状はない程度ですし、それに」
そこまで言うと、少女はゆっくりと左手を持ち上げ、自分の胸に手を当てる。
次の、瞬間。
「このぐらいなら、私の能力ですぐに治せますから。ま、だから虐められちゃうんですけど」
陽乃は、少女の傷が跡形も無かったかのように消えていくのを、呆然と見ていた。
「あ、助けてくれてありがとうございます。私、普通科中三の至神かれんと言います。ええと……同い年の方で……」
陽乃は、少女……かれんの言葉に応えず、呆、と彼女を見ていた。
流石に訝しげな顔をするかれんだったが、陽乃はしばらくそのままで。やがて。
「……す」
「す?」
「すっごーーーい!! 何それ!? 私、そんなすごい魔人能力初めて見た!!」
「え、ええ!?」
「あんなひどい傷をそんなに簡単に治せるなんて、実質神様じゃん! 仏様じゃん! いや、至神さんって言ったっけ、神に至ってるんだったら神様以上じゃん! いよっ、神様ちゃん!!」
「ふえええ!?」
陽乃ははじけ飛ぶようにかれんの両手を取ると、ぶんぶんと上下に振った。興奮と感激が収まりきらないと言った様子だ。
かれんの方も、驚きながらもまんざらではないのか、その表情に段々と笑みが宿っていく。
やがて、陽乃の興奮が収まるころには、かれんもすっかり笑顔になっていた。
「あの、ありがとうございます。……私の能力のこと、そんなふうに言ってくれた人、初めてで」
「そうなの? そりゃ周りの人たちに見る目が無さすぎるなあ。私を信じなさい、神様ちゃんはすごい!」
「え、えへへ……あ、すいません、私、こんなに良くしてもらったのに、貴女の名前……」
「あ、ごめん! 私は演劇専修科中学三年、五十鈴陽乃! 陽乃って呼んでいいよ」
「分かりました、陽乃様」
「様!?」
「神様ちゃんっていう、いい名前貰いましたから……お返し、です」
「む、むず痒い。……ま、いいか、神様ちゃんが満足なら」
「ふふっ……あれ、陽乃様、頭に花びらが載ってますよ」
「あれ、ほんとだ。……薔薇? ここ、薔薇の温室だったんだ……全然気が付いてなかった」
「すごく興奮してましたものね」
「……sint vera vel ficta, taceantur sub rosa dicta」
「え?」
「今やってるお芝居に出てきた、昔の言葉でね。『真実であれ虚偽であれ、薔薇の下の言葉は人々を沈黙させる』って意味」
「……日本語でもよく分からないですね」
「要するに、薔薇の下で話したことは、なんであれみんなには内緒だよ、ってこと」
「あ、なるほど。……それなら、ここで陽乃様とあった事、話したこともみんなには内緒ですね」
「うん、そゆこと! ……あ、でも、一人だけには内緒にできないな。私の魔人能力、妹と記憶を共有する奴で」
「妹さんですか? 構わないですよ。これは、陽乃様にも、私にも、妹さんにも、誇らしい記憶ですから」
「ふふっ……なら、そういうことで。……あ、そうだ、薔薇かあ」
「陽乃様? 薔薇に手を伸ばして何を……え!?」
「痛っ……ふふ、私なりの、今日の思い出」
「だ、ダメですよ! 治してあげます!」
「大丈夫。傷が残った方が思い出せる事って言うのも、あるから」
「……傷が残った方が、思い出せる事……」
「それじゃあ、私はこの辺で。またね、神様ちゃん」
「あ、陽乃様! ……はい。はい、また!」
◆
「……来たね、陽乃様」
「いや、陽乃様を騙る偽物」
「貴女は、誰?」
「ごまかしてもダメ。神様ちゃんには分かるんだ。貴女の手には、あの日の陽乃様の傷がない」
「神様ちゃんの神の左手は、完治した傷、レベルが0になった傷であっても察知できるんだ。それは、どんな手段で癒したとしても変わらない」
「ありうるとしたら、最初からその傷を負わなかった時だけ……つまり、貴女は陽乃様じゃない」
「陽乃様はどうしたの? 何故陽乃様の名を騙るの? 答えて、偽物」
「…………」
「嘘だ」
「陽乃様が、死んだなんて、そんな」
「嘘を、言うな……!」
「だったら、なんで貴女はのうのうと生きてるんだ」
「なんで、貴女は陽乃様の名を騙るんだ」
「陽乃様の名を、奪うんだ……!」
「……」
「…………」
「よく分かったよ、“五十鈴陽乃”」
「だけど、貴女を勝たせるわけにはいかない」
「それは、陽乃様に対する何よりの冒涜だ」
「殺しはしない。他の人たちみたいに快感漬けにもしない」
「貴女は貴女のまま、神様ちゃんに敗れるんだ」
「……予告する」
「神様ちゃんが勝ったら、パートナーは貴女だ、“五十鈴陽乃”」
「……一番近い所で、手のひらから零れ落ちた奇跡を見せてやる」
「? ああ……そっか」
「神様ちゃんが怒ったから、貴女の生命力を直接吸っちゃったのか」
「あーあ、薔薇も台無しだ……ごめんね」
「…………」
「……薔薇塗れの中で眠る、“五十鈴陽乃”、か……」
「…………」
「……陽乃、様」
「…………ぅ」
「ぅぐ……うあぁぁぁ……」
◆
stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.