「ああ、どうやら君と戯れ過ぎていたようだ。私のこの身体も、いずれ異形のものとなり果てるだろう」
「そこまで知っていながら、シモン。君は何故僕の前に立ちはだかったのだ?」
「今更言わせるな。たった一人の親友として、君と雌雄を決したかったのだ!」
(天凌学園研修用歌劇・ガーデンの聖ペトロより)
◆
全身を打ち砕くような衝撃。
強く弾かれた私の身体は、なすすべもなく宙を舞う。
やがてそれは、万有引力の理に従い、虚しく墜ちてゆく。
石畳の地面が迫り、遠のきかけた意識を引き戻すような、第二撃。
砕け散る頭蓋の鮮烈な痛みに呼吸が止まる。だけどこの痛みが、月乃と陽乃を繋ぐ細い糸の様で、とても愛おしかった。
――朝。
姉を失って以来、陽乃は頻繁に、その最期の光景を夢に見るようになっていた。激しい痛みの残滓が陽乃を襲い、朝にはめっきり弱くなってしまった。けれど泣き言を言っていても仕方がない。
(陽乃、もう少し待っていてね。この借り物の身体、いずれ貴方に返すから……)
「奇跡」を手にするためにやることは山積みだ。日々の鍛錬。ライバルの情報収集。支持者を集める為に、草の根の宣伝活動も忘れてはならない。幸い「陽乃」はその人当たりの良さから交友関係が広かったので、ロビー活動のアドバンテージを取るのは容易だった。
冷たい水で顔を洗い、インスタントのポタージュとピザトーストで簡単な朝食をとる。制服に袖を通し、また「五十鈴陽乃」としての新たな一日が始まる。
(じゃあ、行ってくるね、陽乃)
写真の中の同居人に留守を任せ、「陽乃」は女子寮を後にした。
「はい。神様ちゃんはライバルとなる候補者を分析すべく暗躍するのです。囲む会のみんなの働き、期待してるのですよ〜」
『逆十字の聖人』の奇跡により、吸血鬼となってしまった少女、至神かれんは、現在の状況を打破すべく、水面下で動き始めていた。自身が主催する交流サークル「神様ちゃんを囲む会」のメンバーは、彼女の特異体質の事情こそ知らなかったが、気の置けない友人として積極的に情報収集をかって出てくれた。勿論、面白半分と言った側面もあったのだが。
やがて、かれんの下に大小様々な噂話が流れ込んできた。
「神様ちゃん、天龍寺さんが主役狙いっての、マジらしいよ。怖い怖い」
「おじいちゃんに監禁されてた中山さん、復学できたみたい。でも演劇の方は辞退するって。やっぱ身内から逮捕者が出ちゃったらね……」
「なんか最近、SPっぽい人沢山見るようになったよな。あの「阿保坊」の私兵らしいんだけど、何考えてんだあいつら」
演劇の主役を目指す候補者はいずれも劣らぬ実力者揃い。一方こちらは、役者としてはほぼ素人、支持者の数も殆どサークル内限定。正直今の戦力では対抗するのも厳しい状況である。かといって、かれんもこの奇跡のチャンスを諦めるわけにはいかない。文字通り「命」が掛かっているのだから。
「ふふふ、こうなれば有力候補の何人かは、無理矢理にでも辞退してもらうしかありませんなー?」
「やだ神様ちゃん。なんか悪の組織の女ボスみたいでカッコよくね?」
「ならば女ボスらしく、拷問の一つや二つ、覚えておきましょうかー、あはは」
冗談めいて戯けてみせるが、いざとなればそのような手段も厭わないつもりだと、かれんは本気で考えていた。
消えて欲しい有力候補は何人もいたが、かれんがまず目を付けたのは、同学年のある少女だった。
「五十鈴陽乃。一年生ながら定期公演でもちょくちょく主役を張っている実力派ですかー」
夏の公演の宣伝ポスターを眺める。その名の通り、太陽のような笑顔の眩しいアクトレス。かれんは演劇に余り興味は無かったが、高等部に入って早々、主役に大抜擢される様な女優だ。恐らく相当な演技力なのだろう。また写真を見た限り、女の子ウケも良さそうな美形だなあとも値踏みする。
いやまあ、神様ちゃんの神を超えたかわいさほどではないんですけどね。と、しっかり付け加えて。
「とりあえずまあ、ささっと脅迫に行きましょうか、」
不敵な笑みを浮かべながら、かれんは放課後、別棟の演劇専修科へと足を運んだ。
◆
陽乃は朝の玄関からナーバスになっていた。幼稚な嫌がらせなのだろう、上履きに張り付けられた画鋲を、かかとで思いっきり踏み抜いてしまったのだ。
(全く、こんな古典的な嫌がらせ、私が生まれる前の漫画でしか見たことないわよ)
ダンスレッスンに直接影響するほどではないが、痛いものは痛い。それにルール無用の戦いは既に始まっているのかと思うと、授業とは別の緊張感も増す。そうなると、今まで完璧にこなしていた「陽乃」の演技にも、僅かな綻びが生まれてしまう。
「なんか今日は難しい顔をしてない? 陽乃」
「そうかな? まあ、私だって生身の人間だし、たまにはそんな日もあるよ。気にしないで」
「大丈夫? 何か嫌な事でもあった?」
「平気平気。本当に大したことじゃないんだってば!」
友達に気を使わせてしまう。これでは駄目駄目の「月乃」ではないか。とにかく今日はこれ以上ぼろを出さないよう、乗り切らなくてはならない。
そんなプレッシャーと戦いつつ、陽乃はようやく授業を終えたのだった。
その後いつもなら自主練の準備をするのだが、今日に限ってはそんな気分にもならなかった。
(はぁ、今日はなんか無駄に疲れちゃったわね。早めにお風呂入って休もう……)
こんなことでメンタルが崩れる弱さを自戒しながら、陽乃は帰途につこうとするが――
「あなたが、五十鈴陽乃ちゃんさんですねっ」
夕焼けの薄暗い光を浴びた赤い廊下で、見慣れぬ女生徒に呼び止められた。
ボリュームのある髪の毛をポニーテールで結んだ、小動物のような印象の少女。
陽乃と同じ赤いネクタイで、同学年ということは窺い知れたが、演劇専修科の生徒ではないことは明らかだった。普通科か、もしくは芸術専修科の生徒なのだろうか?
「初めまして。至神かれんと言います。神様ちゃんって呼んでくださいな」
至神かれん。陽乃はその名前に反応を示す。演劇の主役を目指すライバルをリストアップする際に浮上して来た名前だ。つまりこの女生徒は、陽乃にとっての敵となる。
「何の用かな? やっぱり前夜祭の演劇の話?」
直接接触を試みたということは、何か狙いがあるはずだ。無論危険だが、校内で仕掛けてきたとなれば、最悪命までは取られまい。陽乃は敢えて、単刀直入に踏み込んだ。
「あはは、流石ですな! 神様ちゃんのことも、しっかりとリサーチ済ですか」
「君だってそうでしょ? お互い様ってことで」
「ですねー。まぁそれなら早速本題に移りますね」
そう言って、かれんは微かな笑みを浮かべた。夕日を写したかれんの虹彩が、赫く輝く。それはまるで、人ならざる者のような妖艶さが滲んでいた。そして――
「陽乃ちゃんさんには、演劇の主役を辞退してもらいたいのです。」
かれんの余りにもストレートな物言いに半ば面食らうが、陽乃は平静を装う。
「それはお願いかな? それとも……」
「神様ちゃんはこう見えてちょっとばかし腕っぷしが強いのです。ただ、事は出来るだけ穏便に済ませたいんですよねー」
「君、図太さだけなら役者向きかもね。ここで暴力沙汰なんて起こしたら、どうなるかなんて分かってるでしょうに」
前夜祭までのこの時期は、いわば支持者を広げる為の選挙期間。そんな中で問題行動を起こせば、いくら治安の悪い魔人学校でも支持者を失いかねない。
ましてや、殺害による口封じも事実上不可能なのだから。
だが、次にかれんの口から出た言葉は、意外なものだった。
「あはは! 冗談ですよ冗談! か弱い美少女の神様ちゃんが、そんな事出来るわけないじゃないですか!」
「はあ?」
「ごめんなさい! ライバルを前にして少しからかいたくなっちゃって。仲直りの握手をしましょう!」
そう言って、不意にかれんは陽乃の手を握って来た。そしてわざとらしくブンブンと振って見せる。
陽乃は思わず眉を顰めるが、自称神様ちゃんはそれを気にする様子も無い。きっと下界の人間の気持ちなど分かりはしないのだろう。
陽乃は溜息混じりに、念の為かれんに釘を刺す。
「今日は見逃してあげるけど、今度は無いからね。出来れば正々堂々と挑んで来てくれることを、祈って……っ痛!?」
突如、足元に激痛が走る。朝のかかとの傷口から、痛みの範囲が徐々に広がってゆく。思わず膝から崩れ落ち、上履きの中を確認する。紺のハイソックスが黒く染まり、それに触れると、内側からじんわりと血が滲み出ていた。傷口が裂けて広がっているみたいだ。
「どうしたんですかあ? 陽乃ちゃんさん」
目の前のかれんを見上げると、彼女は満足げな笑みを浮かべて佇んでいる。
「君、いったい何を……したの……!?」
「はて? 神様ちゃんは何故非難されてるのでしょうか……?」
「と……とぼける気……?」
「何のことかは分かりませんが、かなり痛そうですねえ。これじゃあ舞台に立つことなんて無理かもしれませんね。陽乃ちゃんさん」
――舐めるな。
――これしきの痛みで、あの「陽乃」が挫けると思っていたのか?
――馬鹿にするにもほどがある。だからこの女には見せつけてやらねばならない。
――たとえどんな困難が立ちはだかろうとも、“五十鈴陽乃”に、後退の二文字はないんだ!
陽乃はかれんを睨みつけたまま、再び立ち上がる。そして、傷ついた足で強く踏み込み、ステップを刻んだ。
♪ワン・ツー・1・2・3・4!
ハウスダンスの基本姿勢からのルーズレッグ。リズムを作り、流れるようにパドブレに移行する。
タン。タタン。タン。タタン。
徐々に動きが激しくなり、シャッフルステップに移る。床を蹴るたびに右足が悲鳴を上げるが、それを庇うような動きを見せてはいけない。
「嘘……マジか……?」
かれんは激しく動揺する。朝の玄関口で彼女は、仕掛けていた画鋲を踏んだはずだ。
「神の左手」によって傷口が開いたその足で、何故ここまで踊れるのか。本来ならまともに立つのも辛いはずなのに。
ダンスがクライマックスに近づき、ステップターンを繰り返す。そして大技。ハンドスタンドのドルフィンで、陽乃は見事なフィニッシュを決めた。
再びよろよろと立ち上がり、陽乃はかれんに告げる。
「見ての通り……何の問題もないでしょ。神様ちゃん、私は、この舞台を降りる気は……無いよ」
完璧なダンスを披露した陽乃に対して、かれんは呆然と立ち尽くすしかなかった。
陽乃はかれんを一瞥し、そのまま立ち去ろうとするが、かれんはその背中を呼び止める。
「陽乃ちゃんさん!」
「なんだい、まだ何か……」
「陽乃ちゃんさん! 感激しました! 神様ちゃんを、弟子にしてください!」
◆
稽古場で陽乃は、かれんの治療を受ける。迷惑をかけたお詫びらしい。
かれんが陽乃に触れると、傷口がふさがり、瞬く間に右足の痛みが引いてきた。
至神かれん。彼女の真意が掴めない。なぜ突然弟子入りなどという、突拍子もない発言が飛び出してきたのだろう。
「私まだ、状況が呑み込めていないんだけど……」
「神様ちゃんはあのダンスを見て目覚めたのです。やっぱり姑息な手段は通用しないと。ならば正攻法で行くしかないですよね!」
「正攻法?」
「神様ちゃんの神を越えた類稀なる才能で、演劇界の頂点に君臨する! その為に、最高のししょーが必要なのです!」
頭が痛くなってきた。天然なのか計算なのか全く分からない。
「というわけで、早速レッスンをしてほしいのです。はよはよ!」
「ねえ、私めっちゃ帰りたいんだけど……」
とにかく何かさせないと、解放してもらえそうにない。陽乃はとりあえず基本の呼吸法からレクチャーする。
「基本は腹式呼吸。楽に立って、お腹の下に重心を置くよう意識して、息を吐ききる。今度は胴回りを風船のようにふくらますようなイメージで息を吸い込む。二秒間呼吸を止めた後、ゆっくりと息を吐き切って」
続いて発声練習。
「あ・え・い・う・え・お・あ・お・か・け・き・く・け・こ・か・こ」
「まだ喉に頼ってるよ。さっきの腹式呼吸忘れないで」
その後もいくつかの基本レッスンをする。かれんのセンスは、まあ思ったよりも悪くは、無い。しかし——
「お疲れ様。あと三年真面目に練習すれば、少しはものになると思うよ」
「それじゃあ間に合わないじゃないですか!!」
「当たり前だよ!!」
たとえ神を越えた類稀なる才能があろうと、血の滲むような努力を重ねてきたものでなければ、舞台で輝くことはできない。陽乃はかれんに優しく諭す。
「けれど、神様ちゃんは絶対に奇跡のチャンスを諦めるわけにはいかないのです……。たとえ陽乃ちゃんさんが相手だろうと」
何か様子がおかしい。かれんが奇跡を求める理由。そこに切羽詰まった事情でもあるのだろうか?
「神様ちゃん、君が奇跡を求める理由を聞かせてくれない?」
言い切った後に少し後悔する。私は、その願いを踏みにじらなければならないというのに……。
「実は……」
かれんは自身の身体のことを陽乃に打ち明けた。自分の身体が動く死体であること。吸血鬼としての特徴があること。元の人間に戻るため、奇跡を追い求めていることを。
「大体何でこの学園内で飛び降りなんて意味のないことをしたの? 生き返るじゃない」
「元々死ぬ気はあんまりなかったんですよ。ただ、神様ちゃんの精神が壊れたことにしちゃえば、あの地獄から解放されるような気がして……」
実際問題、かれんの飛び降り騒ぎからいじめ問題が発覚し、クラスが変わることで彼女の環境は改善した。イレギュラーな代償はあまりにも大きかったが、飛び降りそのものに関しては、意味があるものとなったのだ。
「その奇跡が『逆十字の聖人』と呼ばれているのを知ったのは、こんな身体になった後だったんですけどね」
「『逆十字の聖人』って……確か『ガーデンの聖ペトロ』の元になった伝説だったような」
「何ですか? それ」
『ガーデンの聖ペトロ』。演劇専修科でのレッスン用として生まれた、この学校オリジナルの脚本のひとつ。役者を志すペトロという若者が逆十字の呪いに掛かり、怪物を生み出す災厄となってしまう。それを無二の親友であるシモンが討伐に名乗りを上げ、双方相討ちとなる悲劇である。
「で、ここからがあまり知られていない話なんだけど、この話、この天凌で起こった実話が元になっているらしいのよ。私も先生から聞いたんだけど」
ペトロのモデルとなったのは、天凌のとある生徒。元々周りの人間の傷を癒す霧を生む魔人能力を持った生徒だったのだが、いじめがきっかけで能力が暴走。人間の細胞を異常活性させ、人ならざる者に変異させる魔人能力となってしまった為、止む無く当時の生徒会長によって討伐されたらしい。そしてその生徒会長も、演劇の脚本同様命を落としたと言われている。
「となると、『逆十字の聖人』っていうのは……」
「人を怪物に変える魔人能力の思念体。奇跡とは名ばかりの、現在まで残る悪質な呪いの一種かも知れないね……」
「ちょっと待ってください。もしかして、その呪いを解除することが出来れば……」
「元の身体に戻れるかもしれない!」
陽乃とかれんは、『逆十字の聖人』について明日以降、情報収集を行う約束をして、解散した。
(何だか、妙な女の妙なことに巻き込まれてしまったわね……)
しかしこの件をうまく解決すれば、ライバルを一人落とせるので、こちらにもメリットはある。陽乃は半ば諦めて、彼女に協力することにした。
◆
陽乃とかれんは、それぞれの交友関係から、『逆十字の聖人』に関しての噂を調べ始める。
「逆十字の聖人? あー、名前位は」
「そもそもその聖人を見たヤツなんているの? 俺の周りではいないんだけど」
「力になれずごめんなさい。何も分からないわ」
元々『七奇跡』の中でも、マイナーな伝説であったため、詳しいことを知っている生徒は殆ど居なかった。脚本のタイトルに照らし合わせ、校内の庭園にも足を運んだが、空振りに終わった。
「仕方ない、一度神様ちゃんが吸血鬼になった場所。屋上へ行ってみましょう」
そう言って、陽乃は屋上に向かおうとするが、かれんが引き止める。
「違いますよ? 神様ちゃんがダイブしたのは、隣の“中等部”の屋上ですよ~」
「ちょっと待って、君が吸血鬼になった時期って……」
「えへへ、言い忘れていましたが、高校に上がる前ですね~」
「それを先に言ってよ!」
陽乃は頭を抱える。やっぱりこの「至神かれん」とは、絶望的に相性が悪いのであった。
「うう~、寒くなってきましたね」
中等部の屋上に立つと、北風が頬を撫でる。本格的な冬まで、あと僅かだ。見渡す景色も、高等部の屋上とは少し違う。
「で、神様ちゃんが飛び降りたのはどの辺り?」
「あ~、あそこですね! フェンスが少し破れてるとこ」
西側の端、確かにフェンスが壊れている箇所がある。何が手掛かりは無いかと探ってみるが、別段不自然なところは無い。しかし――
「陽乃ちゃんさん、あのビニールの屋根って、何ですかね?」
敷地内の雑木林の奥、ポツンと一棟半透明な屋根が見える。高等部の屋上からは、この校舎の陰に隠れて見えない位置だ。
「ああ、あれは確か……そうか、ガーデンって……」
「?」
「行ってみよう。恐らくあそこが『ガーデン』だ」
屋上から十分足らずで、上から見た場所まで辿り着いた。
半透明の屋根の正体は、植生観察用の温室だった。そして、演劇の脚本通りならば、『逆十字の聖人』が、生徒会執行部によって討ち取られた場所でもある。
中に入ると、亜熱帯植物を中心とした、大小さまざまな植物が顔を並べている。
「陽乃ちゃんさん、ここは何か、不気味ですよ……」
かれんの顔色が悪い。彼女の第六感が、ここは危険だと告げている。外よりは暖かいはずなのに、背筋が凍る錯覚を覚える。
「神様ちゃんは、外で待っていても構わないよ。私はもう少し調べてみるから」
「いえ、神様ちゃんもここにいます。陽乃ちゃんさんが危険な目に遭ったら、大変ですから」
「分かった。くれぐれも私から、離れないようにね」
温室の内部を注意深く観察しながら進む。すると突然、どこからともなく唄が聞こえて来た。
♪ああ、始めから知っていた。僕を止めるのは君しかいないと。
♪けれど僕は進まねば。鮮血の赤で君ごと塗り潰そうとも。
「これは……!」
陽乃にとっては聞き覚えのある唄。二人の交差する運命を謳う、『ガーデンの聖ペトロ』の劇中歌だった。
「うっ……ああっ!」
後ろにいたかれんが突然うめき声をあげる。慌てて彼女に寄り添う。まずい。『逆十字の聖人』の影響下にあるかれんが、この唄を聴いてしまったら……!
数十年の時を経て未だ今世に残る呪いが、かれんに襲い掛かる。
「神様ちゃん、しっかり!!」
「……手に入れた」
かれんの指から、勢いよく爪が伸びる。爪は頬をかすめ、後ろの椰子の木に突き刺さった。あと数センチずれれば額に穴が開いていたところだ。
「……神様ちゃん、一体どうしたの?」
「我が宿願、今こそ果たす時。いざ行かん……栄光の舞台へ」
突如、かれんの身体が発光し、衝撃波が発生する。陽乃は吹き飛ばされ、先程の椰子の木に身体を打ち付ける。
「ぐっ!!」
青白い炎のようなオーラを纏い、かれんは倒れた陽乃を見下ろす。しかし、その顔を見るとすぐに興味を失い、踵を返し立ち去ろうとする。
「……待ちなさい。至神十字」
「……?」
かれんは呼ばれた自身の名前に反応する。立ち上がった陽乃に再び興味を示し、振り返る。
「貴方、どうやら五十年前の戦いの脱落者みたいね。その結末については私も同情する。ただ、どこぞの爺さんみたいなあさましい真似をするのは、気に入らないな」
陽乃はそう言うと、舞台の開幕を宣言する。
「即興劇エチュード『ガーデンの聖ペトロ』、受けてもらいましょうか?」
「……いいだろう」
これが単純な暴力の応酬ならば、戦闘型魔人でない五十鈴陽乃に勝ち目はない。
しかし、これは舞台。役に命を吹き込めるものが、一番強い!
「ああ、どうやら君と戯れ過ぎていたようだ。私のこの身体も、いずれ異形のものとなり果てるだろう」
「そこまで知っていながら、シモン。君は何故僕の前に立ちはだかったのだ?」
「今更言わせるな。たった一人の親友として、君と雌雄を決したかったのだ!」
陽乃の演技に、十字は舌を巻く。その姿形は似ても似つかないのに、確かにアイツがここに居る。十字の脳裏に亡き親友の思い出がちらつく。
そして、自らの演技も陽乃に引き出されているのを感じた。
即興劇は、高いアドリブ力が要求される。しかし、場面場面で適切な言葉を投げ付けてくれるので、自然と次の台詞が浮かび上がるのだ。
決闘のシーンに移ると、陽乃は女性らしからぬダイナミックな殺陣を披露した。
先手。虚を突いた低い姿勢から、軸足を狙う。
後手。跳躍と同時に、次の攻撃に移れるよう姿勢制御。
その徒手に刃が見える。それを紙一重で躱し、こちらの見えざる刃で敵を突く。言葉とは違う、技術の応酬。二手先三手先を読みながら、斬り合い、飛び回る。
楽しい。
とても楽しい。
僕はきっと、こんな舞台を求めていたんだ――
「お別れの時間だ、シモン。せめて苦しまぬよう、終わらせてやろう」
「そうはいかない。例え獣に堕ちようとも、必ず君は、この私が連れて行く」
――交錯する白刃が、お互いの心臓を貫く。
そして、悲劇のクライマックス。舞台の中央、共に頽れる二人。最後の力を振り絞り、シモンとペトロは、お互いの手を取り、力尽きる。五十年前はやりたくても、出来なかったことだった。
全てが終わった時、十字の心は満たされていた。
「気は済んだかな? 亡霊さん」
「ああ、もう何も思い残す事はない。向こうでアイツに、遅れたことを謝らなくてはいけないな」
十字は右手を伸ばし、陽乃に握手を求める。陽乃もそれに応じ、十字の右手を握りしめた。
「君の名前を聞いておきたい。良い土産話になりそうだから」
「五十鈴陽乃。貴方の孫娘の友達、になるのかな?」
「ありがとう。君の未来が素晴らしいものになることを、願っているよ」
そう言って、奇跡の一つは静かに消えた。
十字の最後の言葉に、心がチクリと痛む。その言葉は本来、「陽乃」が受けるべき賛辞なのだから。
「はて? ひょっとして全部終わっちゃいました?」
かれんがひょっこりと戻ってくる。そして、神の左手で改めて自身の状態を確認する。
「ありゃりゃ、神様ちゃんの身体、まだ死んでますねー」
◆
二人は再び屋上に戻る。かれんが二度目の自死を試みる為だ。
「『逆十字の聖人』はもう居ない。つまり、ここから飛び降りれば、保健室の奇跡で復活出来るはず……」
「それはほぼ間違いないと思いますがー、うーむ。どうしよっかな?」
「まあ、死ぬ気もないのに飛び降りるのは、やっぱ怖いよね。ましてや、コレまでイレギュラーな状況だったし」
「まあ、それもありますが……うん!飛び降りるのは前夜祭まで辞めにします!」
「えーと? どういうこと?」
かれんの心変わりに、陽乃は戸惑いの色を見せる。ライバルが一人減るからこそ、ここまで苦労したのに、約束が違う。
「二人の演技、神様ちゃんは十字さんの意識の中で見ていたんですが……。なんていうか、感激のあまり、心に火が付いちゃったんです」
「……」
「とゆー事で、神様ちゃんは、やっぱり陽乃ちゃんさんと真っ向勝負したくなりました! 勿論、神様ちゃんが主役を勝ち取ったら、願いの方はお譲りしますけどね!」
前言撤回です十字さん。私やっぱりこの娘とは友達になれそうもありません。敵だ敵。
頭を抱える陽乃に、かれんはそっと近づく。
「んで、こちらが今回のお礼となります!」
かれんはそう言うと、陽乃の首筋にかぷりと噛み付いた。
「ちょっ……何、それっ……あっ……」
「ちゅぅぅ〜……っ」
かれんが血を吸うと、陽乃の全身に、今まで感じた事の無いような快楽の波が押し寄せる。足元がガクガクと震え、抗うこともままならない。体中の神経が羽毛で愛撫されているような心地良さで、脳髄の奥まで蕩けてしまいそう。
「や、やめ……あっ……んっ……」
「んっ……コク……コク」
かれんは行為を終えると、首筋の傷を消し、小悪魔のように陽乃の耳元で囁いた。
「陽乃ちゃんさんの血、すっごく美味しかった。クセになっちゃいそーかも♪」
屋上を後にするかれん。後に残ったのは、快楽の余韻で呆けたように立ち尽くす陽乃だけであった。
(最初からこの手で来られたら、危なかったわね……)
こうして、陽乃の要注意人物リスト最上位に、至神かれんの名前が載ることとなるのであった。