「―チェックメイトでしょう、これ…」
「そうだね。艶奏」
盤上には白と黒の駒、僕のキングは寮長の駒で包囲されていた。
寮長―グレイ・E・プライズ。天凌学園高等部男子寮の寮長であり、チェスの天才…左目に眼帯をつけているが、本当に見えないか伊達かは分からない。
「―社会に出ても通じる戦略思考、盤面を把握する状況判断能力、駒の取捨選択に踏み切る決断力…チェスは実に有意義な盤上遊戯だ。お茶、どうぞ」
「ありがとうございます」
シナモンとオレンジの風味が甘く溶けていく。家でも、この紅茶を飲んでいたっけ―
『これが最後のお茶になるかしら―』
(…嫌だな、思い出したくもないことを)
家族の思い出とか…あんまり好きじゃない。
ティーカップを握る指が少し震えた。
「君がおれとチェスを指したいだなんて珍しいね。君は決してチェスで強くないが、上位の生徒とは違った指し方で面白かった。
しかし、随分と憂い顔だが悩み事かい?」
「え…と、特にそういうものは」
「ククッ…ならもう少し悩み事がないように振る舞うべきだ。おれは世話焼きなお節介だからね。君が望んでいようがいまいが、悩んでいるのなら解決するのがおれの役目だ」
悪者じみた笑い方をする寮長。…はぐらかしても詰めれちゃいそうだな。
「―そう、ですね…寮長にだけは、言っておきます。貴方には、隠し事出来なさそうですし」
「おれにできることは少ないが、話せば気持ちは軽くなるんじゃないかな。まだ君と3年しか共に過ごしていない。君の出自には興味がある」
僕は確かに、中高一貫の寄宿学校〈ギムナジウム〉に中2で編入した異例の存在だ。なんでここに来たのか、気になるだろう。―この牢獄が如き楽園に。
家が7大財閥だったからか母さんは厳しかった。
「それで何位なのかしら」
「ベスト8だよ…入賞は―」
「またそれ」
そんなの、一応できるくらいでプロみたいにうまいわけじゃないから当然じゃないか。そもそも僕は―
「音楽の方がいい、ってそれも何度目?何人も音楽家の演奏を聞いてきたけど、貴方の演奏は遠く及ばない。一つでもいいから実績を残しなさいとは言ったけど、甘かったかしら」
悔しいけど、彼女は何をやっても常に実績を残し続けた人間だ。
僕と母さんは違う存在。同等レベルの功績を求めるなんて理不尽だ。
「諦めたら他のことに時間を割けるでしょう。そもそも、私は貴方の演奏が嫌いだわ。家の中で演奏されるのも耳障り」
「言いすぎじゃないか、ななちゃん。艶奏だって――」
「貴方は甘いのよ…楽器を買い与えて、どれだけの資金がなくなったと思っているの?投資をする価値が艶奏にある?」
「あのな、艶奏は俺たちの子供だろ?!そんな言い方―」
「おかしくないわ。長門の家は名家、その家に産まれたのだから見合った人間でなければ。力ある者は力なき者のため力を使う義務があるでしょう」
母さんは確かに、託児所やボランティアを運営している。資金は母さんが全額負担で、この家からは一切出ていない。
「自由は大人になって初めて与えられる物…大人って、どういう存在か貴方は身に染みて分かっているのでしょう。役割をこなせる者が大人に値する…常識よね」
父さんは、母さんに何も言い返せない。そう、長い結婚生活で躾られている。
「艶奏。貴方はどうするべきかしら」
「誇れるものを作るべきだと思うよ…だから、音楽を誇れるようになり―」
「夢物語ね」
全て言い切るまでもなく、僕の言い分は一蹴された。
「固執するのは楽器があるからよね。売り払ってしまいましょう」
「え―待って、それは…」
いやだ。昔父さんに買ってもらった大切なモノなのに。
奪われてしまう。僕の夢が、軌跡が、誇りたいものが…
心臓は早鐘のように、指先は打鍵するように、呼吸は魔笛の如く。僕の五体が、音を奏でる。
彼方より此方へと、遠吠えのような耳鳴りが聞こえる。いや、それは耳鳴りであったのか、その遠吠えは本当に彼方より来るものなのか。
「ッ…どうして今耳障りな音が聞こえるのかしら。魔人能力という奴?力を制御できないようじゃ―」
「ななちゃん少し黙っててくれ!」
父さんが初めて、母さんに反抗した。呆気にとられる母さんを気にすることなく、父さんは口を開く。
「…ななちゃん、艶奏を天凌学園に編入させよう」
「いきなり何を言うのかと思えば…天凌学園、あの全寮制の。そんなところに行ってどうするの?少なくとも、あそこを卒業した人間が何かを為した、なんて聞いたことないわ」
「そりゃそうだろ、君は演劇に興味がない。あそこは、演劇の本場だ。文化祭じゃ外部からも有力者が来る」
だけど全寮制ということは2人と別れる、ということだ。
母さんは厳しい。でも…長い年月というのは不思議なもので、離れたいとは思えなかった。
「そこで、艶奏自身が実力を確かめてくればいい。だから、楽器も卒業までは持っていかせる」
父さんの狙いはこれだったようだ。僕の楽器を売らせない、そのための精一杯の抵抗。
「そうね、この家の中だけじゃ甘えるのも無理ないわ。いい機会ね、私も貴方の演奏を聞くのはうんざりだしね」
「いいんだな。艶奏、ちょっと来なさい」
「私が電話を入れておきます。特別編入くらいさせられるわ」
僕を置いてけぼりで、話が進んでいく。…だけど。
これは最後のチャンスだ。学校で何かしらの実績が修められなければ僕は一生この家…母さんの言いなりだ。それだけは、明確だ。
翌日、荷造りをして、僕と父さんは車に乗り込んだ。母さんはついてこない。
「…不出来な親父で、ごめんな」
「僕がやりたいって言ったから、こうしてくれたんでしょ。覚悟を決める期間ができただけでも嬉しいよ」
「………あのな、母さんはお前の演奏が耳障りだと言った。演奏会でもお前の音楽は人に毒だと言われた。
だが、お前の演奏は世間一般から見れば確実に天倵の才と呼ばれるモノだ」
父さんがそんなことを言い出すから、一瞬耳を疑った。父さんはお世辞を言うような人じゃない。何事にも正当な評価を下してきた、公私混同しない人間だった。
そんな父さんが、僕の演奏を評価した。
「だが、お前の魔人能力が才を隠している。俺も魔人だが…お前の音を聴くと、廃人になりかけるんだ」
「廃人…なんで…?僕の演奏が…」
「下手だからではない。それがお前の力なんだ。天凌学園の生徒たちならお前の音に耳を傾けられるだろうさ。強い認識能力を持つ彼らなら、お前の音を聴いても廃人にはならない。その是非を判断するのは彼ら自身だ。だから―」
父さんは見たことのない、満面の笑みを浮かべて言った。
「試してこい。お前の音楽を…演劇の主役をとって代われるレベルの音楽を奏でてこい。お前の全力を見せつけるんだ」
「僕が、寮長にチェスの練習を頼んだのは…怖かったから、ですね。…定例発表会の時に演奏すれば単位は確保できるしおつりだって来る。でも」
怖かった。自分の音楽が、父さんが言ったより…自分が想像しているよりも下手だった時が。
そうであったら、僕はもう、立ち直れなかっただろう。
「だから、チェスをやろうって思ったんです。…本気で学んでいる人には失礼ですが…」
「確かに君は失礼だ。何よりそれは父君に…君自身に対する礼の喪失だ」
「父さんと…僕自身?」
「君の音楽を信じた父君の覚悟を、君に対する信頼を貶めていることは言うまでもないが…音楽をやりたいと純真に考えていた君に対する最大級の侮辱だろう」
「…寮長には、分かんないでしょう」
純真に?僕が?あの抑圧された家の中で、そんな気持ちがあるわけがないだろう。音楽はただの逃避行為だ。苦しくて厳しい家から逃れるための―
「やめなよ、嘘で塗り固められた感情は不愉快だ。鏡を見たまえ」
自分がどんな顔をしているかなんて、知っている。両頬を伝う物が何かくらい、知っている。
―下手な言い訳で逃げ道を作る自分が悔しいことくらい、自分で一番分かってる。
「この学校に編入してから、君は逃避を続けてきた。だが、それも終わりだ。3度現実〈チェック〉を突き付けられただろう?でもそれは敗北じゃない。君の願いは潰えていない」
「僕の…願い?」
「ああ。君の願いは…何かな?」
真剣な表情で、寮長が僕を見据える。
「僕は…実績を残して―」
「君は嘘を吐くのが下手なようだ。建前を並べる必要はない」
母さんが望むような答えが口から出ていた。ここに母さんはいない。僕の思いを、願いを、さらけ出したって悪いことはない。
「僕は、一生音楽を続けたい。僕にしか奏でられない音がある…僕はそう信じてる」
「そうかい。ならば―」
「あ…まだ、一つ」
沸き上がった感情のままに、僕は口を開いた。
「僕の音楽と最高の調和をしてくれる人を見つけたいです。一緒なら、いい”音”を奏でられる…僕の音に耳を傾けてくれる、そんな人を」
僕の音楽は、誰からも耳を傾けられなかった。父さんだって僕の音楽を聴けていたとは言えないだろう。聴いてしまえば廃人となる音楽など、他人からすれば毒なことは明白だ。
だから、願う。僕の音楽に耳を傾け、共鳴し、ともに奏で合える存在を。
「君の望みを聞き届けた。喜ぶといい、君の望みは夢物語ではない。断言しよう」
口元を緩める寮長の顔に、少しばかりの違和感を覚えた。
「天凌祭の前夜祭に行われる演劇を知っているね。その演劇には噂が存在するんだ。『50年に一度、前夜祭の開催宣言の演劇で主役を務めた生徒が鐘を鳴らした時に奇跡が起きる』…眉唾物だと思うかな?」
「…いきなり奇跡とか…よくわかんないんですが…有名な七奇跡ですよね。それが実在してると?」
「奇跡=願望ととらえてもいいだろう。何せ、奇跡だと称するような出来事は観測者にとって望ましい事象だからね。そして今年はその50年目だ」
…なんとなく、寮長が言いたいことが掴めてきたぞ。
「この演劇の主役は、音楽を忘れた土地に音をもたらした詩人だ。…音楽を何度も奪われようとした君に、相応しい役柄であると思うよ」
「でも、演劇ですか…経験ないんですよね…」
「だが君には音楽がある。演劇といってもミュージカル調のものだっていいんだ。楽器を弾きながらでも構わないだろう。何せ主人公は詩を謳う詩人なのだからね、そうおかしいことじゃない」
資料が欲しいのなら全面的に協力しよう、と寮長は僕に微笑みかけた。
「君は演劇を学ぶ過程で、パートナーを見つければいい。そのパートナーこそが君の音に耳を傾け、至高の音を奏でられる者だろう」
僕の音楽を聴いても廃人にならない人がたくさんいる。だったら、この機会を逃しちゃダメだ。…僕の、音楽のためにも。
「…そうですね。手に掴めるかもしれないチャンスです。僕はそれを―無駄にしたくない。いろいろ、相談までさせていただいてありがとうございました。もう、逃げません」
「うん。期待しているよ」
この先、僕を待っているのは…いや、それは今考えるべきじゃないな。
僕がやるべきなのは、最高のパフォーマンスを届けること。最高の音楽を、ここに響かせるんだ。
「若者というのは眩しいな。おれにはあんな輝きを出せる自信がない」
寮長室で、グレイは呟いた。
「…彼らを、埋もれさせていいのか?否、否!彼らの才は解き放たれるべきだ」
テーブルの上には一通の便箋。赤い封蝋が切り取られ、中の手紙が広げられている。
「『変わらぬ1年を繰り返させて頂戴。どんでん返しのない、強き者が勝ち進む1年を。淀んだ奇跡は、起こるべきではない』…クソくらえだ。ヨーク姉さん、おれは貴女に歯向かうよ」
グレイはそっと左目の眼帯を撫でた。
瞬間、何かが、砕けた。
デジャ・ヴュ。グレイは、それを操作する力を持っている。彼は、この学園にかけた『変わらぬ1年』を解いた。
「どんでん返しも、大番狂わせも穴馬も存在しない…否、存在を許されない。ただ人気者だけが勝ち進む演目。見飽きたんだ。
これより裏切りも、工作も、交渉も結構。ルールは無用だ。君たちがやりたいように支持者を集めればいい」
鐘を鳴らした時に起こる奇跡。今まではグレイの能力により鐘をつくという行動が行われない1年が繰り返されてきた。だが、彼はその力を解いたのだ。
「鐘は鳴る。願いは叶う。善き才が、世に知れ渡る。素晴らしいじゃないか、何も封じる必要などありはしない」
その意味も、知らないで。
かくして、鐘は鳴る。人の願いを糧に、音は響く。渦巻く欲望の揺籃は、温かな胎動を始めた。