眩しい光が、暗闇を裂いて眼前に射し込んできた。
時間は夜中。
目の前に寄ってくる明かりはどこまでも煩わしく、わたしの視界を照らす。
人気の無い廊下に靴音が反響する。
自身の手足は思うように動かせず、意識にはもやがかかったような曖昧さがあった。
当然だ。この「記憶」の中のわたしは、まだ生まれたばかりの赤ん坊なのだから。
誰が近づいてきたのか、この時のわたしにはまだ分かるはずも無い。
が、今であれば理解することが出来る。わたしの父親と母親だ。
手に持った明かりの向こうで、ふたりの表情は伺えない。
彼らは小声でいくつかのやりとりを交わした後、息を飲む。緊張が伝わってくる。
そして、わたしに向かって、手を伸ばし、身体を掴み、持ち上げると……
・・・
天井。
朝だ。
ぼうっとした意識でスマホを探し、時間を確認する。目覚ましの時間の1分前だ。
部屋の反対側からは規則正しい寝息が聞こえている。
今日も、目覚ましと一緒に声をかけよう。
「おはようございます、お嬢様」
「……っ……ぅん……」
身動ぎをしながらアラームの出所を探す手に、彼女のスマホを手渡してあげる。こぢんまりとした動きが可愛らしい。
ここで一気にカーテンまで開けてしまったら、気分を害してしまうだろうか。飛んでくるであろう抗議の様子を想像して、少しだけ気持ちが弾んだ。
この人は、わたしを朝からこんな気分にさせてくれる。
「……身支度を整えないままの朝食は二度と摂らない、と豪語されておりましたよね?」
「…………そうだった」
びょん、とベッドが跳ねて、艶やかな黒髪が揺れる。
「有難う……おはよう、アイ」
「はい、おはようございます、絶佳お嬢様」
天凌学園。
全寮制を取るこの学園に所属する学生は、皆等しく学生寮を自分達の寝床とし、自室としている。
生徒たちは二人一組で一部屋を使い、水場やトイレ、風呂場は共用、食堂も皆での使用が基本だ。
由緒ある家柄の生まれである四季巡 絶佳お嬢様と、家系ぐるみで四季巡家を補佐する立場であるわたし、付き人の白露 アイは、この天凌学園高等部の二年生として、この寮、ひいてはこの学園の中で日々を過ごしている。
「アイ、いつもの、いい?」
「はい、お嬢様」
支度を済ませたお嬢様が、部屋の真ん中でこちらに向き直り、手を差し出した。
わたしは正面に立ち、お嬢様の手に自分の両手を重ね合わせる。互いの手を胸の前に掲げ、祈るような格好で額が触れるくらいに顔を近付けた。
お嬢様の愛用しているシャンプーの良い香りがする。
「アイ、今日も私を愛して。私を支えて、守って、あなたの全てを私のために捧げてちょうだい」
「はい、お嬢様。わたしは貴方を支え、守り、わたしの全てを貴方のために捧げます」
「……お嬢様、愛しています」
「うん、私も愛してる」
互いの目を見て笑い合う。
くすぐったくて幸せな、ふたりだけの誓いを交わす。
特にこのやりとりに意味がある訳ではない。
両親に、互いの家に定められた「お嬢様と付き人」としての役割ではなく、いつの頃からか自分達で始めた自分達だけの約束事、毎朝のルーティーンだ。
わたし達の一日は、こうして始まる。
・・・
「これは?」
「あっちの棚ですね。右上から二段目に仕舞ってください」
「おけ~」
部室棟にある演劇専修科の所有する倉庫には、おびただしい量の備品や道具がまるでパズルゲームのように収まっている。
「これ、何年前のだろ?」
「うっわ奇抜……葉っぱが付いてる肌色の……下着? これで何したの?」
わたしは、文化祭実行委員のお手伝いとして、何人かのクラスメイトと過去の文化祭の資料や備品、衣装やらを引っ張り出しては仕舞いこんでいる。
委員長いわく、出し物の方向性を定めるためには、古きをたずねる必要があるらしい。
そういうものだろうか。そういうものかもしれない。
「アイ、捗っている?」
「お嬢様、ええ、問題なさそうです」
絶佳お嬢様が両手で舞台台本を山ほど抱えて入ってくる。
精査が終わったものだろう。直ぐに受け取り、仕舞ってあった場所を『思い出す』。
「これは左の本棚から出したみたいですね、三段目の真ん中に、年度順に並べましょう」
「白露さんのおかげでもう大助かりだよ!」
「映像記憶能力って便利だよね……」
わたしの魔人能力、『記憶の地平線』は自分の見聞きしたことを詳細に『思い出せる』能力だ。
思い出す際にはその時の詳細な状況が確認できるため、わたしはこの倉庫の最初の状態を見回した記憶を頼りに、持ち出した備品の場所を全て『思い出す』ことで、この複雑怪奇な倉庫内においても全ての品を元通りの場所に収納出来ていた。
なお、お嬢様や友人達にはざっくり「映像記憶能力」ということで通している。正確な魔人能力を自分から詳細に話す人は、この学園にはあまり居ないだろう。
「文化祭も楽しみだけど、あっちも楽しみだよねー」
「あ、噂の?」
「そそ。七奇跡のやつ。どんなことになるんだろね?」
仲良しグループの作業である。手を動かしながらも口はにぎやかで、止まることはない。
いつしか、話題は最近よく聞くようになった「前夜祭の奇跡」の噂話になっていた。
「50年に一度、前夜祭の演劇で主役になった子が鐘を鳴らした時に~っ」
「「奇跡が起きる!」」
「でもさ、魔人だらけの学校で奇跡って、半端なのじゃ誰も満足しないよね?」
「言えてる~」
確かに、眉唾ものの話である。
50年に一度というのがまず胡散臭い。学園関係者でそれを二度見る人が基本的に存在しない時間設定には、どこか作為めいたものを感じてしまう。
文化祭の迫るこの時期だからこそ、一時的にそれらしき噂が出回っただけのようにも思えた。
「……でも、目指すのもいいかも」
「え??」
澄んだ声が皆の動きを止める。
ただの噂だ、とは思っていない人が案外近くに居たかもしれない。
クラスメイトの視線を集めた絶佳お嬢様が、唇の端を上向きにしている。
瞳を大きく開けてこちらを見ているし、ふふんと鼻まで鳴らした。
あ。これは、いけない。いけません。
「前夜祭の主役、目指してみるのも……いいんじゃない?」
人差し指を唇のそばに持ってきて、くい、とわたしの方に傾ける。しぐさが可愛い。
「アイが……ね!」
そう言って、とびきり大袈裟なウインクをわたしに投げつけた。
ああ……ほら……やっぱり……。
「でも……そうか、そうかも」
「白露さんなら行けるかも! てか行けるよ可愛いし!」
「私達の中じゃとびきり運動神経も良いし、演技も上手いもんね」
「四季巡さんも主役っぽさあるけど、そっかぁ、白露さんが……なんか燃えてきた……!」
お嬢様のお茶目な発言を受けて、皆の雰囲気が変わっていく。
なんとなく、彼女の提案が正解であるような、そんな空気感が形成されていく。
「ま、待ってください皆さん、上級生も、普通科や芸術専修科の人達も主役を狙うんですよ、とてもじゃないですけど、わたしでは……」
ささやかな抵抗を試みるも、それが無駄なことは理解していた。
お嬢様はこちらを上目遣いで見ながら微笑んでいる。うう、可愛い。
「う、うう……わかりました……善処します……」
「やったっ」
「大丈夫! 私には『視え』たよ! 白露さんが主役の舞台!」
「あんたの未来視能力はせいぜい5秒とかでしょうが……」
「決まりね。主役は投票制だから、ひとりでも多くの人にアイを認めて貰う必要がある。みんなで頑張って、このグループからアイを主役にしましょう!」
「「「オー!!」」」
こういう時、意外と中心人物は蚊帳の外に居がちだ。
みんな悪意は無いし、本当に期待されているのが分かるから否定するのも憚られる。
……仕方がない。
「まぁ……それを、お嬢様が望まれるのであれば……」
わたしは困り笑いを浮かべつつ、盛り上がる友人達の作戦会議に耳を傾けるのだった。
・・・
放課後。
寮までは数分と経たずに辿り着くため、この学園内には登下校の時間というのはほとんど存在しない。わたし達はいつものように、二人揃って自室へと帰り着いた。
「ただいまぁ」
「お帰りなさい、お嬢様」
真横に向けて互いに挨拶を交わす。
お嬢様といえば、そそくさとワンピースのファスナーを下ろしつつ、もう片手でクローゼットを開け、ブレザーをハンガーに収めている。ずいぶん器用な芸当だ。
わたしは、脱衣タイムアタックの模様を眺めながら、その背中に話しかけた。
「……お嬢様、何故、あのようなことを?」
「へ? あ、主役のこと。……今日は勝手にごめんなさい」
「いえ、まぁ……驚きはしましたけれど」
シャツのボタンを外しながら、お嬢様は続ける。その表情は伺えない。
「だって、アイはいつも……いっつも、私の後ろに控えようとするから」
「それは、そういう役割ですから」
「本当はとっても凄いのに。勉強も運動も、何だって本当に上手に出来るのに、アイは」
そこまで言って、こちらに向き直ったお嬢様はいつになく真剣な表情だった。
あの。服を着てください。
「アイは本当に凄いんだって。私は、皆に分かって貰いたいの」
きらきら。きらきら。
お嬢様の目の中に星があれば、きっとそんな効果音が響いてきたはずだ。
そのくらいに、こちらを見つめてくる彼女の瞳は輝かんばかりの美しさだった。
どこか、実際の歳よりもずっと若く、子供っぽさすら感じるような。
無邪気で、可愛らしく、愛おしい眼差しだった。
大好きなこの人が、こんなにもわたしに期待して、こんなにも望んでくれるのだ。
ここで己の力を尽くさないのは不義理だろうと思う。
それに応えるために頑張るというのは、何もおかしなことではない。
「……分かりました」
毎朝のルーティーンのように、お嬢様の手を取る。
「どうなるかは分かりませんが。その座に立ってみようと。努力したいと思います」
「……っ、ありがとう!!」
そして、『奇跡』がもし本当にあるのならば。
その時は……。
目を閉じて、少しだけその可能性に想いを馳せた。
・・・
眩しい光が、暗闇を裂いて眼前に射し込んできた。
時間は夜中。
目の前に寄ってくる明かりはどこまでも煩わしく、わたしの視界を照らす。
人気の無い廊下に靴音が反響する。
自身の手足は思うように動かせず、意識にはもやがかかったような曖昧さがあった。
当然だ。この「記憶」の中のわたしは、まだ生まれたばかりの赤ん坊なのだから。
誰が近づいてきたのか、この時のわたしにはまだ分かるはずも無い。
が、今であれば理解することが出来る。わたしの父親と母親、だと思っていたものだ。
手に持った明かりの向こうで、ふたりの表情は伺えない。
彼らは小声でいくつかのやりとりを交わした後、息を飲む。緊張が伝わってくる。
そして、わたしに向かって、手を伸ばし、身体を掴み、持ち上げると……
隣で寝ている、自分と同じ「産まれたばかりの赤ん坊」と……その寝かされている位置を入れ替えた。
そしてほくそ笑むのだ。これで四季巡の家に我々の血が入る。この娘は、従者として我々の娘に一生付き従わせるのだ……と。
そう。
わたしは……白露の家の娘ではない。
四季巡の家に生まれ、生まれたその日に白露の家の両親によって取り換えられ、白露の家で育てられた。
白露 埃。
四季巡 絶佳お嬢様の、唯一人の付き人である。